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一時間後、買い物から帰ってきた多香江は幸一の部屋のドアの前でふたたび立ち止まった。室内からは、相変わらず彼の寝息が届いてくる。
デートをしていたときの、外泊などで夜をともにした記憶が呼び起こされるのは、これと同じ音を耳にしたからだろうか。それとも、久しぶりに夫の人間性に触れたことで心が緩んだのか、あるいはその両方か。
意を決した多香江は、幸一の部屋をノックした。寝息が止まり、しばらくのあいだ沈黙が続く。
「どうしました?」部屋の中から幸一が応じる。寝起きのためか声がくぐもっており、普段の抑揚の無さも薄らいでいた。
「お昼を買ってきたんだけど、食べない?」
「ありがとうございます」幸一は答えた。声が幾分しっかりとしてきている。「お先にどうぞ。あとでもらいますので」
「わかった」
多香江は立ち去りかけ、廊下の途中で幸一の部屋を振り返った。あることに気がついたからだ。
〝どうしました?〟幸一はそう訊ねてきた。
夫は、ドアの向こうにいるのが多香江だと知っていた……当然だ。この家にはほとんど来客がないからだ。
友人や、ひいては多香江の知る限りでは両親ともすっかり疎遠になっている幸一。そんな夫と自分は、この家にたったふたりきりなのだ。結婚生活を始めてからの年月のなかで、彼をとりまいていた孤独はいつしか多香江にも這い寄っていた。
買ってきた弁当を、多香江は半分ほど残してしまった。幸一との生活に孤独を癒す要素も逃げ道も無いことをあらためて思い知り、食欲がわかなかったのだ。それでも彼女はキッチンテーブルについたまま、じっと夫があらわれるのを待っていた。
やがて幸一が自室から出てきた。身につけていたのは毛玉のついた紺のスウェットで、彼は家にいるあいだはこれと色違いの二着目とを着まわしていた。少し寝癖のついた毛先を見て、多香江はふたたび安堵した。
大丈夫、彼は人間なんだ。そしてこうも考えた、人間ならどうにかする手立てはあるはずだ、と。
「どうしたの?」立ったまま動こうとしない夫に多香江は訊ねた。「そんなところにいないで座ったら?」
「いえ……」幸一が躊躇しているのは明らかだった。「ですが……」
「遠慮することないじゃない」
多香江がふたたび促すと、幸一は渋った様子ながらも向かいの椅子に腰を降ろした。それを見て、彼女は暗い愉悦をおぼえた。同時に、自分と夫がこうして食卓をともにしていることに驚きもした。
結婚してからの三年間、夫婦がテーブルで顔を合わせたのはこれが初めてだったからだ。幸一は多香江と食事をするどころか、彼女に一定以上近づこうとせず、ましてや互いに触れ合うことなどまったくなかった。
「いただきます」幸一はそう言って箸を口に運びはじめた。
対面につく多香江はその様子をじっと見ていた。とはいえ、背もたれにぎりぎりまで身を預け、できるかぎり遠目に見守っていたと言ったほうが正しいかもしれない。まるで夫が突然豹変して噛みついてくるのを警戒しているかのように。
幸一もまた、感情を取り去って、無表情の鎧をまといながら食事を続けていた。
ひどくゆっくりとした動作だった。昔は多香江が食事を半分も終えないうちに自分の分を平らげてしまうほどの早食いだった。
多香江はよくそんな幸一の身体を心配して、もっとゆっくり食べるように口酸っぱく言ったものだ。そんな彼が久しぶりに見せた食事する姿は、まるで油のきれたロボットのように緩慢なものだった。
そうして一定のペースで行われた食事に、幸一が喜びや幸福を見出した様子はなかった。料理が粘土かなにかでできているかのような、いや、仮に食事のすべてが粘土でできていようと頓着しないような徹底さでもって、彼の無感情の均衡は崩れることはなかった。
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