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 ここでいきなり手でも握ってやったら、どんな反応を見せるだろうか。夫の顔をとっくりと眺めながら、多香江はそんなことを考えた。  火傷でもしたいに手を引っ込めるだろうか、それとも握り返してくる? 恋人だった頃の幸一であれば、多香江がそんなことをしたら抱き寄せてきたかもしれない。もちろん、当時の彼がそれ以上のことを期待していたのは言うまでもない。しばしばそういうシチュエーションのなか、幸一から求められたこともあったからだ。  想像したことを実行する代わりに、多香江は頭の中で別のことを思い浮かべた。もしも、ここで自分が離婚を切り出したら、幸一はどんな態度をとるだろう。  この考えは、幸一の手を握ることよりずっと魅力的だった。彼は多香江の言葉を聞いてどんな反応をするだろう。いつかみたいに、どこか冷たさの残る理屈っぽい説得をするだろうか、それとも、あっさり離婚に応じるのか……多香江との結婚を承諾したときのように。  あるいは絶望して、ベランダから彼の数少ない衣類を突っ切って真っ逆さまに身投げするかもしれないし、逆上して多香江にむき出しの殺意を向けてくるかもしれない。  いずれにせよ、こうした結果をもたらすすべての可能性は甘美でさえあった。  せっかく並べたドミノ倒しを踏みつけて滅茶苦茶にしてしまうような、あるいは完成間近のジグソーパズルをばらばらにしてしまうような……そんな破壊的な魅力が横たわっていた。  だがなによりも多香江にとって抗いがたかったのは、どの結末を迎えたとしても、自分でこれを終わらせられることができるということだった。  たったひとこと幸一に別れを切り出すだけ、それだけでいい。そうすれば斜面の危うい位置にある大岩が転がり落ちるように、勝手に物事が進んでいくはずだ。自分は指一本で押しさえすればいい。  だが多香江はなにもしなかった。手を握ることも、結婚生活に終止符を打つことも。  ただじっと夫の食事姿を見つめながら、空想の中でこの衝動がもたらすあらゆる結果を繰り返し味わうだけだった。 「どうしました?」幸一が訊ねる。 「別に」言いながら多香江は、幸一と視線が合ったことへの動揺を必死に悟られまいとしていた。「見られてたら食べづらい?」 「いえ……」  そう言って幸一は目を伏せた。居心地が悪そうなのは明らかだった。そして多香江は、視線がはずされる瞬間、夫の瞳で光が輝いたのを見逃さなかった。それはまるで、真っ暗な夜空に輝く一粒の星のようだった。  収穫としては申し分なかった。多香江はやおら立ち上がると、夫の横を通ってリビングに面した自室の引き戸に手をかけた。振り返ると、食事を続ける幸一の丸めた背中が見えた。 「ちょっと休むわ。食事してて。後片付けはわたしがやるから」 「わかりました。おやすみなさい」  幸一の返事を最後まで聞かずに寝室の扉を閉めた多香江は、そのままベッドに潜りこんだ。布団を頭からすっぽりかぶると、身体を丸めて両脚をばたつかせながら口元を覆った毛布の中で快哉を叫んだ。湧き上がった感情と折り合いをつけるには、そうすることしかできなかった。  物置部屋の奥からの鼾を聞き、自分の同席を渋った様子を見、そして目の奥できらめいた光も取り逃さなかった。それらがなにを意味するのか見当もつかなかったが、多香江は久しぶりに幸一の人間性のようなものに触れたのを実感していた。  それまで夫は、その得体の知れなさと神出鬼没さも相まって、しばしば多香江をぎょっとさせた。ありていに言えば、ひとつ屋根の下で暮らす幸一は人間大のゴキブリ……ただし月に一度、彼女の下にお金を運んできてくれるゴキブリ……となんら変わらなかった。  そんな幸一を久しぶりに人間として見ることができたのだ。ほんのひとときのあいだでも、その事実は彼女の心に潤いを与えてくれた。  ひょっとしたら、自分たちはこれからもやっていけるのではないか……多香江はそう考えられたし、考えることでその実現性がさらに増すように感じた。  捨て鉢にならなくてよかった。まったく、なんだって別れ話などを切り出して一切合財の希望を捨てるようなことをしかけたのか。あの抗いがたい誘惑に屈しなくて本当によかった。  夫に対してこうした感情を持ち続けられれば、日々の暮らしにもっと彩りを得られるはずだ。  そうすれば、この生活を送っていくなかで感じていた息苦しさや後ろめたさからも解放されるのではないか。  布団の中の暗闇の一点を見つめ、多香江は決心していた。  そうだ、お互いに歩み寄りさえすれば、この不毛とさえいえる結婚生活を変えることができるかもしれない。すぐにでも始めるべきことだ。  そのためには、自分から最初の一歩を踏み出す勇気さえあればいい。  多香江の気持ちはいままでにないほど前向きになっていた。彼女はいきおいそのままに、最後にこうも考えていた。  それにこのやり方が失敗に終わったとして失うものはない。たとえ失敗に終わったとしても、少なくともいまのこの生活だけは残るはずだ、と。
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