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「ひさしぶり」  落ち合った横浜のカフェに、友人の奈々子は一足先に着いていた。 「遅れてごめんね。待った?」 「いいって、あんたが時間にルーズなの知ってるし。それに先に一杯やってたから」  そう言って奈々子はティーカップを持ち上げてみせる。 「一杯って……それ、紅茶じゃない」 「まあね」  奈々子が笑ってひとくちすする。そのいたずらっぽい笑みに、多香江は今朝の出来事から救われる思いだった。遭難した山から人里に辿りついたとき、あるいはいまと同じような気持ちになるのかもしれない。  そういえば、幸一は登山が趣味だった。  付き合っていた頃、聞いたこともないような山に登りに行くと言われたときなどはよく心配したものだ。いまとなっては、そんな気持ちを抱いていたことに驚きではあるが……それにいまとなっては昔のことだし、夫の趣味のすらこの瞬間まですっかり忘れていた。  昼食をともにしながらの奈々子との会話の内容は多岐に渡った。  大概は最近観た映画やドラマのことや昔の思い出話だったが、お互いが既婚者ということもあり、食事を終えてお茶のお代わりをもらう頃には、話題は夫婦生活のことに移っていた。 「え? それじゃあ多香江って旦那と全然会話ないの?」奈々子が持ち上げていたカップをコースターに置く。  問いかけるような奈々子の視線に、多香江は俯くように頷いた。まるで懺悔でもしているようで居心地の悪さを感じる。 「ただのひとことも?」 「挨拶ぐらいはするけど……」思わず答えが言い訳じみてしまう。 「だったら普通じゃない」 「そうういうもの?」奈々子の意外な返事に顔を上げる。  奈々子は頷いてみせると、「うちだってそうよ。付き合い始めてからもう十年近くになるけど、これだけ一緒だと話すことも無くなるわ」 「うちはまだ結婚して三年だけど」結婚一年目からまったく会話がなかったことは伏せておく。 「その前に二年以上付き合ってたでしょ? 五年も一緒にいればそんなもんだって」 「でも、実際には二年の空白があるんだけど……」  幸一とは二年の交際期間を経たあとに一度破局しており、それから二年後の再会をきっかけに結婚に至っている。幸一と交際していた当時、奈々子には付き合い方や別れ話の切り出し方まで色々な相談に乗ってもらっていた。 「いいじゃない。破局からの再会、からのゴールインでしょ。普通に付き合って同棲して入籍、なんて流れよりよっぽど素敵だと思うけど」  幸一との馴れ初めは大恋愛と言うには程遠いのだが、テーブルに身を乗り出す奈々子の顔には平凡以上を期待する表情が浮かんでいる。  そんな友人に対して、多香江は曖昧に頷くだけにとどめた。 「だったらほかの男を見つけるってのは?」含みのある笑みで奈々子が言う。 「離婚するってこと? 嫌よ。いまからそんな疲れそうなこと」 「そうじゃなくて、どこかで適当に別の男と遊ぶとかさ」 「考えられない」多香江は、今度はきっぱりと首を横に振った。 「それだけ断言できるなら、やっぱりいまの旦那を愛してるってことじゃない」  見当違いもいいところだ、そう思ったものの、多香江はわざわざそれを訂正する気になれなかった。  別の男性と関係を持つことなんて、とても考えられない。幸一を愛しているからではなく、彼に対して密かな恐怖を感じていたからだ。  あの物静かで無表情な顔の裏側でどんな感情が渦巻いているのかはわからなかったが、多香江は夫の様子を見るにつけ、しばしば海上を吹き荒れる嵐のようなうねりを思い浮かべていた。  沖合いで渦巻く嵐は、海岸から眺めるだけなら激しい風にさらされることも強い雨に打たれることもない。だが遠目からでも雲や波のうねりはわかるし、稲光を目にすることができる。  そんな嵐を思わせるような激情が幸一の身内にも存在しており、爆発したそれがいつ自分に牙を向くともわからない以上、迂闊なことはできなかった。  そもそも自分が別の男性になびくということ自体が考えられなかった。恋愛経験は豊富なほうではないし、テレビの中で見かけるような整った顔立ちの男性に憧れを抱いたこともなかった。  ありていに言えば、男性との恋愛や結婚生活にほとんど興味を持つことができなかった。  幸一についてもその例外ではなかった。 「とにかくさ、一回でいいから旦那と会話してみれば?」紅茶を飲み終えた奈々子は言った。「じっくり話してさ、いい感じになったら一緒に寝てみなよ。その様子じゃだいぶご無沙汰なんでしょ?」 「やだ、その言い方おじさんくさい」  奈々子はからからと笑うと、「とにかくさ、男はそれだけで喜ぶし、夫婦仲って案外それでうまくおさまるもんよ」 「そうね……」多香江は頷きながらも、これが生返事に聞こえないことを願った。  多香江には奈々子に打ち明けていないことがまだまだあったのだが、彼女の誤解を解くためにわざわざ秘密をつまびらかにしようとも思わなかった。  その原因はひとえに、奈々子が多香江と幸一の話を訊いているときの態度にあった。  奈々子は多香江の夫婦生活に好奇心を抱いている。  友人のためになんとかしてあげようとするのではなく、ゴシップを覗き見するような興味を示していることが明らかだった。  五年前、幸一との恋愛相談に乗ってもらっていたときもそうだ。受けたアドバイスを鵜呑みにし、恋人に別れを切り出したりもした多香江にも責任はあるが、奈々子はあのときも別れを促すような助言しかしてこなかった。  もしかしたら奈々子は自分が楽しむためだけにそんな無責任なことをしていたのかも知れない。当時は友人の悪意に少しも気づかなかったが、振り返ってみるにつけ心当たりが次々と目についてしまう。  そして彼女はいまも……  会計を済ませて店先で別れたあとも、多香江の脳裏には奈々子の表情がちらついていた。  やはりその表情には、どこか下世話な好奇心が見え隠れしていた。
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