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 自宅に戻ったのは午後三時をまわった頃だった。  スーパーで買ってきた惣菜を冷蔵庫にしまい、取り込んだ洗濯物をたたむ。ひとり分しかない食料と衣類はすぐに片付いた。  やることを終えてテレビをつけたが、壁にかかった時計ばかり気になってしまう。この時間帯はいつも憂鬱だ。  今日、夫は何時に帰ってくるのだろう。  会社を出て家まで帰ってくる時間を逆算しながら、多香江はいつ玄関のドアが開くのかと気が気でなかった。しだいに重苦しくなっていく気持ちとは裏腹に、時計の針が着実に時間を刻んでいく。  だしぬけにテーブルの上の携帯電話が震え、多香江は飛び上がった。画面に表示された相手の名前を見て、止めていた息を吐き出す。 「なに?」電話に出てそう問いかけるときには、多香江は平静さを取り戻していた。 「母親に向かってその言い方は無いでしょ」電話口で母の香織(かおり)が答える。さばさばとして飾り気のない口調は幼い頃から耳馴れたものだった。「どうしてるかなって思って」 「別に、いつもと変わらないけど」  昼間、カフェで奈々子と話していたときよりもぶっきらぼうになっていた。母との会話はいつもこんな具合で、相手の口調につい引っ張られててしまう。 「君塚(きみづか)さんは?」母が訊ねる。 「仕事。知ってるでしょ」 「まあね。今日は遅いの?」 「知らない」 「じゃあさ、あんたこっちに来なさいよ。夕飯食べに行こう」 「ダメ。君塚さん、いつ帰ってくるかわからないもん」 「けちね。いいわよ、お母さんひとりで出かけるから」 「そうしてよ。今日は忙しいから」  電話口で香織が黙る。誘いを断ったときはいつもこの調子だ。 「けち」  そう繰り返して、母が電話を切る。数回の不通音が途絶えると、昼下がりの空気が余計静かに感じた。  結婚するまで、母とはいつも一緒にいた。  親子というより友達同士のようなもので、食事に買い物にと、つねに共に行動していたものだ。  父親を早くに亡くし、母子家庭で育ってきたのが大きかったのだろう。多香江は母を信頼してていたし、香織にとっても自分がかけがえのない存在であることを確信していた。  父が遺してくれた預金や保険金は相当な額で、香織と多香江は特に不自由もなく生活を送ることができた。直接訊いたことはなかったものの、多香江の見立てでは貯蓄はまだ相当の余裕があり、持ち家で年金も入ってくる母は悠々自適の生活を送れているはずだ。  だが香織にとってのそうした充実感や幸せというものは、多香江と一緒に生活をしてはじめて得られるものなのだろう。結婚してからというもの、香織はほとんど毎日こうして電話をかけてきては、多香江に自分と一緒に過ごすよう言ってくる。誘いを断って嫌味を言われることもしばしばだ。  母は幸一に嫉妬しているのだと思う。  義理の息子を「君塚さん」呼ばわりするのがその好例だ。いまや「君塚さん」とは自分の娘のことでもあるというのに。  きっと、母のなかでは多香江はいまでも、わが家の吉野(よしの)多香江なのだろう。  その気持ちがわかっていながらも、多香江には母のこうした子供じみた態度が腹立たしかった。  そこから幸一をないがしろにしようとする気持ちが透けて見えるからではない。毎日重苦しい空気の中で生活する娘の気持ちに理解も示そうともせず、母が自分の感情を優先していることが嫌だったのだ。 「人の気持ちも知らないで。わたしだって必死に堪えてるのよ」多香江はそうぽつりと呟いた。  口にした独り言が溶けるように消えていっても、不愉快な気持ちは澱のように、いつまでも胸の内側をわだかまっていた。
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