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 玄関のドアに鍵が差し込まれる音を聞いて、多香江は身を強張らせた。  午後八時三十分、幸一が帰ってきた。  夕飯は出来合いの惣菜で済ましていたし、入浴も終えてあとは寝るだけだった。できるだけ顔を合わせたくない夫の帰りを待っていたのは、妻としての立場上、最低限の義務を果たすためだった。 「ただいま帰りました」リビングの入り口で立ち止まった幸一が言う。 「わたし、もう寝るから」夫の挨拶には応じずに言う。「冷蔵庫に夕飯があるから適当に食べて」 「あの」立ち去ろうとする多香江の背中に、幸一が声をかける。「これを」  幸一が歩み寄ってきて、思わず数歩あとずさってしまう。  多香江のそんな態度も意に介さないかのように、幸一は鞄から取り出した銀行の封筒と、葉書ほどの大きさの書類をテーブルに置いた。 「ああ、そう。給料日」  多香江がテーブルに近づくと、今度は幸一が後に下がった。まるで同じ極同士の磁石のようだ。  多香江は封筒を手にすると、中から抜き出した一万円をテーブルの上に置いた。 「もらえません」幸一が言う。 「いいから」固辞する幸一へ向けて一万円をテーブルの上に滑らせる。「小遣いもやらない鬼嫁だなんて思われたくないのよ」 「そういうことでしたら」  幸一は紙幣を手に取ると、小さくたたんで鞄にしまった。 「じゃあ、寝るから」 「おやすみなさい」  寝室に入った多香江は後ろ手にドアを閉めると、リビングの様子をそっと窺った。幸一がリビングを出て、玄関につながる廊下の途中にある自室に戻る気配を感じ取ると、彼女はようやく安堵した。  いつ帰ってくるか気を揉んでいるよりも、家という居場所がわかるところにいてくれたほうがいい。  幸一は本人がそばにいるときよりも、いないときのほうがその存在感を強く感じさせた。それは今朝、ベッドに入り直した多香江のそばにあらわれた彼の幽霊のようなものだった。  少なくともここは安全だ、多香江は思った。この部屋に幸一が入ってくることはない。  夜が更けて幸一が自室にこもれば、トイレで用を足したり、キッチンまでお茶を取りに行くこともできる。それまで部屋の中でじっとしているのが、彼女の日常の一部だった。  多香江はベッドに腰かけると、封筒の中身をあらためた。封筒には一緒に受け取った給与明細の額面通りのお金が、一円単位までぴったりと入っていた。唯一足りていないのは、先ほど幸一に渡した一万円分だけだった。  たくさん残業したのだろう。高給取りとは言えないが、幸一の稼ぎは多香江が一ヶ月間不自由無く暮らせるだけの額があった。ふたりのあいだに子供はいないし、これから先作る予定もない。  幸一が働いているあいだ、多香江のこの生活は約束されていると言ってもよかった。  口座にそのまま振り込めばいいものを、毎月の給料日と年二回のボーナス支給日のたび、幸一は毎回こうした行為を繰り返してくる。交通費が支給される月には、駅から発行された領収書まで添える念の入れようだ。  黙ってお金を受け取るものの、多香江は夫のこの儀式めいた行動が気に入らなかった。まるで幸一が給料の上前をはねてへそくりとして溜めこんでなどいないと、自分の身の潔白を証明しているかのようだったからだ。  同時にそれは、多香江が夫のことを信頼していないと言われているようでもあった。
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