過去 1

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過去 1

「君塚さんのこと、ちょっといいなって思ってるんです」  七年前の夏、多香江は幸一に自分の気持ちを打ち明けていた。  時刻は深夜をまわろうという頃、場所はファミリーレストランだった。 「そう、ですか……」  そう言った幸一は顔が赤く、目も泳いでいて、効きすぎた空調で冷めきっているはずのコーヒーを、まるで沸騰でもしているかのようにちびちびとすすっていた。  そんなふうに慌てている幸一を可愛らしいとも思えたのは一瞬のことで、あとは彼からいい返事をもらえることを祈るばかりだった。  幸一と知り合ったのはその三ヶ月前、懇意にしている取引先の営業として、多香江の勤めている会社を訪ねてきたときだった。新年度の挨拶まわりで同行していた幸一を、彼の先輩である矢部(やべ)が紹介してくれたのだ。 「彼、君塚っちです」 「はじめまして……君塚っちです」紹介した先輩の言葉を真面目に受けてか、幸一は言いながらお辞儀した。  多香江はほかの事務員たちと一緒になって思わず吹き出してしまった。 「今度から彼がこのエリアを担当することになりましたので、引き継ぎも兼ねて皆さんにも顔を覚えて頂こうと思いまして」  矢部のそんな説明が聞こえていたが、多香江は幸一のことばかりを見ていた。  けして人目を引くような整った外見はしていなかったが、幸一が巡らせていた視線とかち合うたびに、多香江は彼に親しみがわいていくのを感じた。  担当となってからというもの、幸一の存在は多香江の感情の起伏を大きく左右するようになっていた。相手に関するほんの些細な出来事でひどく落ち込んだり、反対に大きな幸せを感じたりもしていたのだった。  たとえば、自分が不在にしているときなどに来社していた幸一と顔を合わせられなかったことに落ち込んだり、逆に社内の廊下などでばったり会ったときには、その幸運を噛みしめたりもしていた。  友人の奈々子にこの気持ちを打ち明けるにつけ一目惚れだと断言されたが、多香江ははじめ簡単には信じられなかった。それまでの二十五年間、多香江は恋人がいたことも、誰かに恋愛感情を抱いたこともなかったからだ。  だが本人の自覚とは裏腹に、その気持ちは少しずつ大きくなっていった。同じ業種が集まる懇親会の席などで幸一と同席できたときは素直に喜べたし(普段こうした集まりにあまり足を向けてこなかった多香江は、彼と会うことが目的で参加した)、来社予定日をあらかじめ把握できたときなどは、幸一がやってくる時間を密かに待ちわびてもいた。  間近に迫った夏を謳歌するためには恋人が必要だ、そう一席ぶつ先輩の言葉を拝聴したときなど、無意識のうちに幸一の顔を思い浮かべたりもしていた。  会社に来ていた幸一から連絡先を訊かれたのは、そんなある日のことだった。  彼が言うには、各社合同で暑気払いが行われるため、その幹事のひとりとして多香江の予定を訊いておきたいのだそうだ。  中小企業同士が集まる古い体制でこうした席が設けられるのはよくあることだったが、そこでなぜ幸一が多香江の連絡先を必要とするのかはよくわからなかった。それでも、彼と連絡を取り合えるかもしれないこの機会に多香江は快諾した。 「でも、わたしの連絡先教えちゃっていいのかな……」 「どうしてですか?」 「君塚さんに彼女さんとかいたら、なんだか申し訳ないですし……」 「大丈夫ですよ」  困ったような笑顔を見せる幸一が次に口にする言葉を、多香江は固唾を飲んで見守った。連絡先を訊かれたいきおいで逆に質問してみたが、恋人の有無に関する彼の答え次第では自分が天国にも地獄にも行けてしまえるように思えたからだ。  遅れて緊張がやってきたが、それがひどくなるよりも先に幸一はこう続けた。 「僕、彼女いませんし。でもすみません、考えが至りませんでして。吉野さんこそ訊いてしまってご迷惑じゃありませんでしたか?」 「全然! わたしも彼氏いません!」  それから連絡先の交換はつつがなくおこなわれた。  喜びと安堵でへたりこみそうになるのを、多香江は携帯電話をぎゅっと握りしめることで堪えていた。  その晩のうちに、幸一から暑気払いの日取りについて連絡があったときには、部屋でひとり小さく飛び上がりもした。
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