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 だが、それきり連絡は送られてこなかった。  本当に業務連絡にしか使われなかったのだと多香江は大いに落ち込み、こちらから持ちかけられる話題はなにかないかと頭を悩ませ、携帯電話に着信が入るたびに心弾ませ、それがネット広告や、まったく違う友人からのものだとわかると落胆した。  それでも多香江がまだ冷静でいられたのは、およそ一ヵ月後に予定されていた暑気払いがあったからだ。この集まりのために連絡先を訊かれたのだから、ここでなら幸一となにかしらの進展があると思えたのだ。  ところが、幸一は先輩社員の矢部に連れられて終始挨拶まわりをするばかりで、多香江のところにはほんの数分ほど声をかけに顔を出しただけだった。  多香江はそれから二時間あまり、大して親しいとはいえない事務員や中年の社員たちと盛り上がりに欠けた会話を交わしただけで、消化不良のまま暑気払いを終えてしまった。幸一とふたりで抜け出すことはおろか、有志による二次会さえもなかった。  この日のために新調したワンピースも無駄になってしまい、家路につこうとした多香江だったが、すぐに思い直して携帯電話を取り出した。  画面を見つめながら、彼女は今日という日をこのまま終わらせたくない一心で幸一にメッセージを送った。そして三十分後、彼と落ち合ったのがこのファミリーレストランだったのだ。 「どうでしょう?」自分の気持ちを打ち明けた多香江は、幸一にそう訊ねた。 「あ、はい。あの……実は僕も、以前から吉野さんのことが気になっていまして」 「え? あの……それって嘘ですよね?」  思わず否定的な疑問が飛び出す。  幸一は自分に気を遣ってくれているだけではないか。だからこんな心にもないことを言ってくれているのではないか。そう思ったが、幸一の言葉の真偽を問わず言葉だけを取り上げれば、ふたりは両思いということになる。  とても受け止めきれそうにない事実を前に、多香江の頭は混乱しはじめていた。 「本当です」幸一が言う。「実は、今日の飲み会のためとは言いましたが、連絡先を訊くための単なる口実だったんです。けど、それ以上の勇気が出なくて……」  幸一はコーヒーカップを置くと、それまで俯きがちだった顔を上げた。 「こんな僕でよければ、お付き合いしてもらえませんか?」  低頭する幸一の頭からのぞくつむじを見ながら、多香江はくすりと微笑んだ。 「はい、わたしでよければ。よろしくお願いします」  幸一がふたたび顔を上げる。その顔にはどこか力の抜けたような笑顔が浮かんでいた。  こうしてふたりは日付の変わり目に恋人同士となった。  それから終電を見送ったふたりは、始発が動くまでのあいだ、お互いについてたくさんのことを話した。
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