現在 2

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現在 2

 朝。目を覚ました多香江が最初に見たのは、暗くなったノートパソコンの画面だった。  寝室の外から物音はしない。壁掛け時計の針は、九時半を過ぎて十時をさそうとしているところだった。  幸一はとっくに会社へ出かけたのだろう。顔を合わさずに済んでほっとしたものの、自分が眠っているあいだも行動していた夫の存在に、どこか薄ら寒さを感じた。  多香江は横向きで寝転んだ姿勢のまま、ぴたりと閉ざされた寝室の扉を見た。  スライド式の引き戸で、施錠できるタイプではない。自宅の中でトイレや浴室以外に鍵は不要なのだろうが、いまの多香江にとってはそのことが気がかりでならなかった。  もしも幸一が出かけていなかったら……たとえば会社に行ったふりをして、いまもまだ家の中にいるのだとしたら。  どこかの物陰で息を潜めているのだとしたら。  寝室の引き戸を開けると、目の前に立っていたら。  そのいずれかが現実となったとき、多香江は悲鳴をあげるのを堪える自信が無かった。  だが、そんなことがあるはずもなかった。  結婚してからというもの、幸一は多香江に手をあげるどころか、触れることも近づくこともしてこなかったからだ。もちろんこのような距離感では性生活など成立しようはずもなく、当然ふたりのあいだに子供はなかった。  ばかばしい妄想だ。  そう笑い飛ばして起き上がった多香江だったが、下に人が入り込めるだけの隙間があるベッドの脇に足を降ろしたときには背筋がざわつき、寝室の戸を開けるときはいつでも後ろに下がれるように身構えていた。  当然、寝室のすぐ外に幸一はいなかったし、キッチンテーブルやリビングのソファの物陰に身を隠してもいなかった。多香江はつま先立ちになって窓際まで歩み寄ると、素早くカーテンを開けた。部屋が明るくなったことで気持ちにも余裕ができた。  カーテンを開けた窓越しのベランダに夫が佇んでいた、ということもなかった。  それでも玄関のドアが施錠されているのと通勤靴が無いのを見るまで、多香江は幸一が出かけたということを確信できなかった。  ここまでしたのだから、浴室やトイレまで調べるのはさすがにおおげさだろう。  そんなことを考えながら朝食の支度をしようと廊下を引き返しかけたそのとき、なにかが落ちる物音が静まりかえった家の空気を震わせた。  多香江は身を強張らせると、その場に立ちすくんだ。  錆びついたかのように軋む首をめぐらせ、幸一の部屋のほうを向く。物音は、その閉ざされたドアの奥からした。まさか、夫がこのドアの向こうにまだいるのではないか。  思わず確かめようとドアノブに手を伸ばしかけた多香江は、そこで動きを止めた。  自分がばかげた妄執に囚われていることに気づいたからではない。室内を調べる前に、身を守るものを用意する必要があるように感じたからだ。  なぜそのようなものが必要なのか。必要だとしてそれに適したものがこの家にはあるのか。そんな問いに答えは出せず、また適当な道具も思いつかず、多香江は半ば諦めるようにドアを開けた。自分が薄手のパジャマ一枚にしか包まれていないことが、ひどく無防備であるようにも感じた。  部屋の中にも幸一はいなかった。  床の片隅に、赤いエナメル地のハンドバッグが転がっている。ちょっとした振動かなにかでバランスを崩して落ちたのだろう。  多香江はそれを拾いあげると、すぐそばの衣装ケースの上に置きなおした。  部屋の中には、バッグを乗せたのと同じような衣装ケースが積み上げられ、その隙間に扇風機や使わなくなった古いヒーター、クリスマスツリーなどを入れたダンボールが置いてあるだけで、それ以外に調度品のたぐいはほとんどなかった。  ここに入るのは久しぶりだ。最後に足を踏み入れたのは去年の秋口、衣替えで冬服を取り出したときだった。  座椅子がひとつ、マンションの共用通路に面した格子付きの擦りガラスの窓から差し込んだ光を浴びている。座面の上にはきちんとたたまれた毛布が置いてあった。  マンションの一室、夫婦で暮らす家の物置部屋の一角にだけ、幸一のプライベートは存在していた。  別に多香江が彼をここへ追いやったわけではない。夫が望んで、ここを選んだのだ。  幸一の持ち物はこの座椅子と毛布を除けば、数枚の肌着くらいしかない。スーツは年中着たきりで、夏には冬用ワイシャツの袖をまくって着まわしている。  廊下に出る前に多香江はもう一度、自分が着なくなったものや使わなくなったものに埋もれた幸一の住処を振り返った。  それから、しばらくのあいだはこの部屋を見ずに済むよう、強くドアを閉ざした。
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