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現在 1
夫の幸一は、毎朝目覚ましを使わずに起きる。
その日の朝、妻の多香江も目覚ましの助けを借りずに夢から覚めたのだが、それは幸一が身支度をする物音を耳にしたからだった。
目を開けたままベッドに横たわっていると、幸一が扉一枚を隔てたリビングを移動する気配だけがする。
足音はしない。
多香江は靴下を履いた幸一の足が、滑るように洗面所へと向かうのを感じとっていた。
蛇口から水の流れる音がしたが、それもわずかなあいだだけだった。いったいどれだけ少量の水しか使わないのだろう。にもかかわらず、出かけるときの夫は寝癖ひとつなかった。
また憂鬱な朝が始まる。
多香江をベッドから引っ張り出したのは幸一よりも遅く起きたことへの焦りではなく、家をとりまく重苦しさに堪えられなくなったからだ。
寝室を出ると、幸一はダイニングテーブルについていた。こちらを向く彼の前には、水を注いだコップだけが置いてある。
「おはようございます」
幸一が言った。平板な声が、白みつつある部屋の空気と溶けあっていく。今日も寒くなりそうだ。
「起こしてくれればよかったのに」
多香江の言葉は夫に向けたものというより、むしろひとりごとに近い。
冷蔵庫の中になにも入っていないのを見て、思わず舌打ちしそうになる。
仕方なく流し台の横にある抽斗を開け、真空パックされた白米とインスタント味噌汁の素を取り出した。米をレンジで温め、ポットから注いだ湯で味噌汁の素を溶かしていく。
昨夜に沸かしたきりのお湯はぬるかったし、冷えきった茶碗によそった米は見る間に熱を失っていった。そのあいだ、夫婦にはなんの会話もなかった。
「いただきます」
無言で置かれた食事に幸一が一礼する。
お碗の底にお湯に溶けきらなかった味噌汁の素がかたまっているのを見て、多香江は嫌悪感がわいた。こんな朝食を出されても文句ひとつ言わずにもそもそと食事する幸一に対してか、それともこんな食べ物しかないこの家に対してか。
どちらなのかはわからなかったし、多香江はそれ以上わかろうともしなかった。わかったところで、自分にできることなどたかが知れているからだ。
「ごちそうさまでした」
幸一は空の食器にふたたび一礼すると、それを流し台に持っていった。わずかに出した水を茶碗に注ぎ、スプーン一杯にも満たないような少量の洗剤を染みこませたスポンジで洗い物を始めた。ちゃぷちゃぷと水が跳ねるわずかな音は、沈黙をよりいっそう深くした。
多香江は相手に聞こえるように大きなため息をつくと、リビングのソファから立ち上がって流し台のそばへと歩いていった。
「わたし、やるから」
キッチンの入り口に立った多香江が言ったが、幸一は無言のままだった。
「ちゃんと洗わないと。あとで臭ってもいやなのよ」
この言葉に幸一は動きを止めると、食器とスポンジを置いて多香江に向きなおった。
「では、お願いします」
幸一はそう言うと、キッチンを出て洗面台のほうへと引っ込んだ。これから歯を磨くのだろうが、夫は歯磨き粉も使わない。ただ、くたびれた歯ブラシで歯を念入りにこするだけだ。
幸一の姿が見えなくなったことを確認して、多香江はシンクと向き合った。
手をのばしかけ、夫が触れたスポンジをつかむのを躊躇したあと、指でつまむようにして蛇口から出したお湯で洗剤をきれいに落とした。
食器を洗うあいだはお湯をいきおいよく出した。早く終わらせてしまいたい一心で、寝間着の袖口に飛沫が跳ぶのも気にしなかった。
「行ってきます」
洗い物の途中だった多香江はそう背後から声をかけられ、思わず飛び上がりそうになった。振り向くと、リビングの入り口に幸一が立っている。
今年で三十六になる幸一は二十代と言っても通りそうな童顔で、かつては肉付きのよかった丸い輪郭がそれに拍車をかけていたが、この数年ですっかりやせ細っていた。
きちんと採寸して昔の身体つきに合わせていたスーツもいまはぶかぶかで、みすぼらしさを助長している。
驚いて声を出せないままの多香江に頭を下げ、幸一は家を出て行った。蛇口を流れ続けるお湯の音と多香江だけが、家に残された。
さっきまで夫が立っていた場所を見つめたまま、しばし呆然とする。
突然、この幽霊のような夫に対して怒鳴り散らしたい衝動にかられた。それが恐怖と苛立ちのどちらかなのか、あるいはその両方からくるものなのかはわからなかったし、答えを出す前にこめかみがずきずきと痛んだ。
この生活が始まって三年になる。
最初は堪えられると思っていた。幸一のあの態度さえ我慢すれば、贅沢とまではいかなくても、不自由なく生活を送ることができると信じてさえいた。
だがいまでは、この息がつまるような生活のつけがそこらじゅうにたまっていた。いま多香江を襲っている頭痛も、そのひとつだった。
痛みのおさまる気配がなかったので、多香江は寝室に戻ってベッドに横になった。
少し眠れば楽になるだろう、そう考えていた。だがいつまでたっても眠気は訪れず、かえって目が冴えていった。
遮光カーテンのまわりに朝日がぐずついているだけの薄暗い寝室……その部屋の隅に、物言わぬ幸一の影が佇んでいるように思えた。
夫ははたして本当に生きている人間なのだろうか。
常々わきあがるその疑問に、多香江はこれといった答えを得られないままでいる。
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