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オオカミは白鹿の生首を離した。口元が露わになる。異様に発達した顎は、上と下とで大きさが大きく異なり、歪んでいて、噛み合わせることが全く出来なそうであった。不揃いの、そして過密なほどに生えた牙は下顎からも突き出ていた。
口が閉じられないので中が少し見える。
少女はゾッとした。口の内側、本来は生えない場所にまでも、みっしりと牙が生えていた。
『お、おオオ、御オオ。
命(みこと)は贄か。乞うか。
口をみみみヌヌぬか。怖れよ。』
オオカミの声に感情はない。
まるで無機物が発しているようで、冷たい感じがする。
男は顎を触り、んん、と考える。
「ああ、そういうこと?
いや、オレは生贄じゃねえし。
あと、別にオマエも怖くねえし。」
『……。』
オオカミはなにも言わず、鼻をスンスンと鳴らして男に近付けた。男は抵抗せず、オオカミに臭いを嗅がせたあと、オオカミの鼻と口元に手を置いて、軽く撫でた。
「いやぁ、怖いってか、むしろカッコいいと思うんだが。オレ個人としちゃあ。」
男はオオカミを讃えた。オオカミの大顎を褒めた。男の言い方と態度は、本心からの言葉のようであった。少女はそう思ったし、実際にもそうであった。
ザクロの瞳が、初めて男に向けられた。
オオカミは低い声で、ヴヴ、と喉を鳴らし、声を出す。
『メ。』
「め?』
『め、め、名(めい)、、を、言えよ、名ヲ。』
「……。」
男は黙って聞いている。オオカミが言い終わるのを待っている。
『言えよ、ちい、さき者よ、チチチ、、き、口の者。』
「んん、ああっ、名前?名前を聞いてる?
オレ、ここでは━━━━━━っていうんだ」
男は名を名乗ったが、突如吹いた風のせいで、少女の耳には届かなかった。
「で、オマエは?」
『……。』
「オマエの名前は?」
『………。』
オオカミはなにも答えなかった。答えられなかった。オオカミには名乗る名前が無かった。
「ん~、じゃあ勝手に、××、って呼ぶわ。」
××のところだけ、ノイズが入った。少女は××の部分を聞き取ることができなかった。
「で、頼みたいことがあんだけどさ、」
『……。』
「オレを出雲の国まで案内してくんない?」
オオカミは無感情のまま、なにも言わず、顔を右方向へ向けた。
「あ、そっちなの?
いやぁ、助かるわマジで。」
オオカミは歩き出す。男はその後を追う。
これから始まるオオカミと男の旅を、優しく降る雪が隠す。
雪が一粒、
読者であるはずの少女の肌に触れ、
溶けた。
溶けた雪は水滴一滴分にも満たない。
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