1-1.飴と雪

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 昼休みが終わり、撫子は教室へ戻る。  午後の授業も午前と同じように、机に臥せったり、外の景色を眺めたりして過ごす。何度か教員に注意されたり、何か言われたりしたが、撫子はそのすべてを覚えていなかった。上の空というやつで、耳に入ってももう片方の耳からすっぽ抜けてしまうのだ。  ホームルームが始まり、担任の女性教員が教卓の前に立つ。その教員ーー五木田奈緒子(ゴキタナオコ)という教師は三十代で小太り。去年赴任してきたとは思えないほど、クラスメイトとは打ち解けている、明るい人。アダ名は誰がつけたか、“ナオちゃん先生”。 「ーーは、プリントを配りますね。」  しゃっきりとした、教室の隅々まで届く声。  ナオちゃん先生は列の先頭へ人数分のプリントを配る。撫子はまわってきたプリントを見ず、半分に折った。  配られたプリントを見て、クラスがざわつく。  プリントには“進路希望調査”と書いてある。  「進路について、しっかりと考える時期になりました。若さは可能性です。みんなはなんにだってなれますよ!」  ナオちゃん先生の言葉に、クラスの男子が面白半分に反応する。 「それじゃあオレっ、東大行っちゃおっかなぁ~!」  行けるわけないじゃんよ、と女子生徒からヤジが飛び、クラスは笑いに包まれる。  笑い声の中、ナオちゃん先生は良く通る声で声を張る。 「いいよ行ける!でも“東大に行って何をするか”が重要ですけどね。もちろん、“東大が好きだから東大に行く”っていうのも全然有り!」  予想外の真面目な返答に、少し笑い声が収まる。  ナオちゃん先生は続ける。 「わたしが先生になろうって決めたのは、ちょうどこの時期だったの。担任の先生がとっても良い先生で、“わたしもこうなりたい!”って思ってね」  気づくと、笑っている生徒は居ない。  ナオちゃん先生は続ける。 「そのときの“なりたい”っていう気持ちに気付く切っ掛けになったのが、進路希望調査でした。みんなも“将来の自分がどうなりたいか”を考えるが切っ掛けにしてほしい。しっかりと考えて、悩んでみてほしいな。分かんないことがあったら先生、相談にのるから。」  めんどくせー、とさっきの男子生徒がブー垂れる。  クラスの雰囲気はとても良い。 「……。」  撫子はナオちゃん先生の話の意味が分からなかった。将来のことなんて、撫子には想像が出来ないのだ。  だって、今日を生きることに必死なのだ。  息をするのですら失敗しそうになる。  今日が通りすぎるのを耐える日々のなかで、明日のことなど考えられるだろうか。  現実が無茶苦茶で、未来のことなんて想像できるだろうか。  それを“時期だから”なんて理由で考えさせるなんて、なんと無責任なことか。  将来のことなんて知らないし、知りたくもない。  明日のことを考えると死にたくなる。  今ここで死んだっていい。  生きていることに申し訳なさすら思う。 「……。」  撫子は気分が悪くなり、手に持っている進路希望調査を握りつぶす。くしゃくしゃにして、通学バッグに入れる。  ナオちゃん先生はそれをチラリと見たが、咎めず、そのままホームルームを進行する。 「じゃあ、明日の予定ね。体育の加藤先生から体操服の忘れ物がーーー」  そうして、ホームルームが終わる。  帰りの号令が終わると、撫子は通学バッグを肩にかけて足早に教室を出る。ナオちゃん先生が引き留めるが、ナオちゃん先生の声は撫子の耳に入らない。 「……。」  撫子は目線を下げ、廊下を歩く生徒達の間を縫うようにして足早に歩く。  撫子はとにかく、一人になりたかった。  少なくともあんな、未来に思いを馳せている者の中には居られなかった。  そうして下駄箱にたどり着き、靴を履き替えて学校を出ようとした時、一人の女子生徒に腕を強く掴まれる。  女子生徒は声を張る。 「ちょっとデコっち!!どーして電話でないわけ!どんだげウチが心配したと思ってんの?!」  その女子生徒の、少しだけ低く深みのある大人っぽい声は、怒りに満ちていた。  デコっちという愛称で呼ばれた撫子は、目を丸くしてその女子生徒を見る。その女子生徒はつやつやした黒のロングヘヤ―で、少し丸顔。背は高く、ブレザーの上からでも分かるくらいに胸が大きい。 「キョーコ……」  撫子は彼女の愛称を呟く。  彼女は撫子の幼馴染にして親友。  名前は七重杏子(ナナエキョウコ)。
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