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空のあるべき場所が揺らぎ、幾つもの波が縮んでは広がった。
若い男はふらりと上体を起こし、その頭上にあるものが空なのか水面なのか僅かに思考した後に「はぁ」と間の抜けた声を発する。寝起きの頭脳には、それは度が過ぎて奇天烈な、あるいはしっくりきてしまうような難問だった。
彼はゆっくりと立ち上がると、ズボンのポケットをまさぐり、特段理由もなくスマートフォンを起動した。ロック画面には、どこかも知れぬ森を背景に、時刻が表示されている。
「23時、36分」
これまた大した意図もなく読み上げると、彼はちょっとした違和感を覚えた。確か自分は――その記憶が正しいものならば――11時前に家を抜け出し、近所を散歩していた筈。ところが、いつの間にか眠りについて尚、この時間。眠りが浅かったということだろうか。
彼は頭を捻り、それはそれでおかしいなと勘付いた。というのも、その場所、即ち、頭上に波紋が広がり、視界の届く範囲にろくすっぽ何もない馬鹿げた荒野には、てんで見覚えがなかったからだ。なんのための場所かは兎も角、極めて短時間で辿り着く場所にも思えない。
流行りのVR、でもないらしい。彼は開ききっていない目を擦ってみたが、そこには確かに目があるばかりで、ゴーグルを装着している風ではない。彼はまた少し考え、どうやら夢らしいと結論付けると、当てもなく歩き始めた。
空か水面かなんにせよ、頭上に太陽は見えない。どこまでいっても、同じような模様が蠢いているだけ。要するに、光源はどこにもない筈なのだが、彼はその場所を暗いとは思わなかった。全体がほんのりと明るく、灰色の大地がいつまでも続いているのが分かる。
「我ながら」と彼は確かめるように口にした。「テキトーだなぁ」
今度はそれにも意味があった。大概の夢は、それが夢であるという意識を持つだけで、儚く崩れ去ってしまうものだ。そして彼は、自らの頭の中のつまらない世界よりも、何故に自分が、一体どこで眠っているのか、そちらの方に余程関心があった。
ところがどっこい、事態は思い通りにはいかない。景色は不気味なまま正しい形を保ち続け、変化は一切見えないままだ。彼は力なく歩きながら頭をかいて、再びわざとらしく頭を捻った。
「どうしたんですか?」
少女の声だ、と少なくとも彼は思った。彼はその声の主の方に振り返り、たちまち、ギョッとした。
それは彼の想像通り、確かに人間の少女の容貌をしていた。どこかの中学か高校の制服らしきものを纏い、丸っこい茶色の瞳で、不思議そうに彼を眺めている。色の白い可愛らしい子だ。腕も脚も二本ずつ。珍しいことと言えば、その少女の腹が妊婦のように膨れていることくらいだった。
「……あの、大丈夫ですか?」
彼が呆然としていたのに連動して、その少女はそう問いかけた。「あぁ、いや」とこれまた間抜けな返事が彼から飛び出る。
「趣味が悪いなと思って」
「へっ……?」
「あ、ごめん。こっちの話だから、気にしないで」
何を言っているのか自分でも理解出来なかったが、彼は首を振った。夢だろうがなんだろうが、軽率な発言で人を怒らせて楽しいものでもない。自由にならない脳の勝手な判断で動いてくる以上、相手は実在の人間と大して変わらない。
「それより、ここがどこか分かるか? 人は君以外に見てないんだけど」
「あ、そっか。外の人ですね。なるほど」
返事になっちゃいないが、少女は合点したように頷いた。「外って?」と男は言う。仕方がないから、夢に話を合わせてやるつもりなのだ。
「外は外ですよ。それより、案内します。こっちへ」
そう言うなり、少女は男の手を引いて、虚ろな荒野を歩み始めた。腕にも足にも感触はない。明瞭な視界と思考が優先され、そこまで再現してやる余力もないらしかった。
「どこへ行くんだ?」
と尋ねかけたところで、彼は荒野の向こうに小さな家を見つけた。岩手にある彼の父親の生家――二年前、高校入学直前に寄ったきりだ――によく似た、二階建ての和風家屋だ。ただし、セピアの写真のように灰色に染まっており、ここにも手抜きの精神が見受けられる。
よく目を凝らすと、その家にやや距離を置いて、数人分の影が見えた。足を1歩踏み出す度、それらは加速度的に確かな輪郭を形成する。そしてそのことに違和感を抱き始めた時には、既に家屋は彼の目前にあった。一々呆れている暇もない。
さて、肝心の人影の正体だが、今度は彼も然程驚かなかった。殆ど予想通りだったと言っていい。そこにいたのは、揃いも揃って腹を膨らませた、10代から20代初めくらいの若い女性達だけだった。
その女性達が、男の出現に気付いて一斉に視線を向けた。が、大して興味もないらしい。なんともなかったように視線を戻し、それぞれ、談笑するなりぼんやり空を見上げるなりと、自分達の暇潰しに戻っていった。
「ここにいる人達は、皆こうなのか……その、妊婦みたいな」
和風家屋を見上げて若干躊躇いがちに尋ねると、少女は「そうですよ」と拘りなく答えた。
「皆、ヘリオンル様の子です」
「ヘリ……あ?」
「ヘリオンル様ですよ、ヘリオンル様。貴い御人です。聞いたことくらいあるでしょう?」
「あぁ、そういえばあったかな……」
無論、そんな貴人のことは欠片ほども知らない。知ったこっちゃない。夢となればそれを補完する記憶も生じそうなものだが、突けば倒れそうな名前だという印象が湧いただけだった。その無差別的な行いに反して。
「なんだか、その、随分と元気な人みたいだな」
「そんなことありませんよ。もうずっと、屋敷の中に籠ってばかりで。そろそろ400年になるとかで、私は会ったこともないんです」
それはさっきの話と矛盾するだろう、と言いかけ、すぐに止めた。夢幻に論理を求めることの方が、ずっと愚かだ。
「きっと、貴方を呼んだのもヘリオンル様ですよ。珍しいですけどね。たまにあるんです、そういうことも」
「なら、そのヘリオンル様はどこ? 顔くらい見せた方がいいと思うんだけど」
如何にもやる気なさげな語調だったが、少女は特に気にしなかったらしい。「こちらへどうぞ」と家屋の方を手で指し示し、男の行動を促した。この少女自身は、そこまで付いて来ないようだ。
彼は逡巡すら見せずにその誘導に従い、玄関の引き戸をサッと引いて中に入っていった。「2回までですよ」と後ろから少女の声が飛び、それは彼をなんとなくげんなりさせた。
明かりは点いていなかったものの、室内もまた、僅かに明るかった。とは言え、壁も床も何もかも灰色で統一されているため、その違和感たるや中々のものだ。
また、構造もこれまた簡単楽ちんで、玄関の先には長い1本道の廊下があり、その奥に両開きの扉がでんと待ち構えているのみ。その風景の中、物音1つしないのは流石に不気味だったが、悪夢にしては陳腐な感が否めなかった。
彼はスニーカーを脱いで綺麗に並べると――玄関には小さな草履だけが置いてあった――足音を立てずにさっさと扉へ向かった。ノックをするべきか否か悩み、いや、しないよりはする方がいいだろうと思い直すと、彼はノックをして反応を待った。
「はい、どうぞ」
老人の掠れた声が迎えるのかと思いきや、それはやや甘ったるい女性の声だった。秘書か何かだろうかと予期しながら彼は扉を開き、間もなく、反射的に溜息を吐いてしまった。
扉の先の部屋は、時代劇で殿様が家臣を集めるような部屋と似通っていた。ただし、広さは学校の教室程度で、沢山の障子もない。では何が時代劇を想起させたかと言えば、畳が敷き詰められていることと、奥の一段上がったところに殿様が鎮座している点だった。
いや、それは殿様というより、カバぐらいのサイズまででっぷりと肥え太った黒いスライムに和装の切れ端をぺたぺたと貼り付け、笑みを浮かべた侍――だろうか? 髪型はちょんまげだ――の大きな仮面を被せた、意味不明な代物だった。よく見ると一定の周期で膨れたり縮んだりを繰り返しており、それが生きていることが窺える。
その傍らには、例の如く子を孕んだ女性の姿。黒い浴衣に赤い帯を締めている。更に言えば、現在の年齢は17歳。名前は八木奏。中学時代の志望校は彼と同じく都立大柳高校で、これまた同じ塾にも通っていたのだが、見事彼女だけが合格した。
簡単に言えば、彼の中学時代の同級生だ。当時の姿とは違い――と形容するのも滑稽だが――ほんの少し背が伸びたようで、無垢な可愛らしさをある程度残したまま、顔つきも成年のそれに近付いている。ショートカットで固定されていた黒髪も、ふわりとしたミディアムに転じていた。夢の癖に。
「あ、もう来たんだ」
男の姿を捉えるなり、表情を綻ばせて八木が言った。当の彼は自らの悪趣味と低俗さに呆れるやら哀れむやらで、目を細めて化け物と八木へ交互に視線を送ると、不愉快さを精一杯表現するように舌打ちした。
「え? どうしたの?」
「うんざりだよ。恥じらいよりも嫌悪が勝る」
そうしてまた溜息を吐いてやろうとするが、それを遮って、寝起きのオッサンの叫び声を音割れ寸前までボリュームアップしたような絶叫が部屋中に響いた。男はびくりとして身を竦ませるが、八木は余裕綽綽といった風に彼に笑いかける。
「ごめんね、びっくりしたかな」
耳の中でこだまする音に参りながらも、彼は辛うじて苦笑いを浮かべた。「まぁ、うん」と短く返しつつ、黒スライムに目をやる。
突然のことではあったが、絶叫はその黒スライムから発せられたようだと判断出来た。彼が見たところ、発声器官と思しきものはない。けれども、そいつが音源であることは確かなのだ。
「……今の、俺の所為?」
「うーん、そうかもね。この御方のお考えを見透かした気になるのも、非常に失礼な行いだと言えるけど」
「そ、そう……」
彼は急に物怖じしながら意味もなく周囲を見回し、下唇を口の中でちょっと噛んでから、前に出て黒スライムに土下座した。てっきり止めてくれるものかと思ったが、八木は「それがいいかも」と寧ろこの行いを肯定している。
黒スライムは沈黙に徹して、何も言わないし叫ばない。確かに考えを見透かすのは至難の業だろう、などと冷静ぶって考えながら、彼はおずおずと頭を上げる。
本当にこれでいいのか、とでも言いたげに八木に視線を送った。彼女はそれにすぐ気が付くと、また無邪気そうに笑って男の隣に、しかし彼の方を向いて正座した。
ますます混乱するのは男の方だ。態々隣に来るのは訳が分からないし、それが黒スライム的にどうなのかも判断がつかないし、土台夢だからってあんまり卑しい。そしてやっぱり、八木の方を向いてまた叫び声を聞く羽目になるのも御免だ。
「そんなに怖がらないでいいのに。貴い御方は、無闇に怒ったりしないよ」
じゃあさっきのはなんなんだ、という文句を喉の奥に押しやり、それでも少し渋い表情を見せた後、男は八木と膝を突き合わせた。黒スライムは、この時も何も言わなかった。
近くで見てみると、八木は確かに彼のイメージ通りの容貌で、けれども微かに大人びているような雰囲気があった。寧ろ彼は「悪夢だ」とその精細な描写に落胆する。
八木はそれを聞いて、少し目を丸くしてから「そっか」と寂しそうに口にした。先の文句には大して反応も見せなかったのだが、あれは黒スライムへの罵倒だと受け取った、ということだろうか。
――それはそれでいいんだろうか?
「あ、いや、ごめん。比喩表現でなくて、こんな逢瀬を夢に見るのは愚かしいと思って、だから……」
「えっ、夢?」
打って変わって、彼女は驚きに声を上ずらせた。「そうだろ?」と男は更に付け加える。
「悪夢はいつだって鮮やかだし、意思もはっきりしている。明晰夢に近いから、不穏な想像は全て的中。これは現状と概ね一致していると思う」
意味もなく気を遣っておきながら、いっそ突き放すような口調だった。八木は首を傾げて、暫らく男の方を見つめていたが、突然に彼の手を握った。
「触ってるの、分かるでしょ? 夢なんかじゃないよ」
と言われても、やはり感触がない。また、彼女の行動は男の想定の範囲外ではあったものの、それが深層意識によるものだとすれば説明はついてしまう。
けれども、懇切丁寧にこれは夢だと語ってやるのも億劫だ。
「そうだな。ごめん」
「それに、私がいるのに悪夢なんて酷いよ。びっくりしちゃった」
「あー、うん。それもそうか。悪かった」
腹を縮めてから言えよ、と彼は内心で毒づく。実際に八木が妊娠していたところで構いやしないが、これはまるで異常性癖の顕れだ。知人の女性が出るだけでも問題だろうに。
「……で、俺はどうすればいい?」
「どうするって、別に、ちょっと話したいなって思って。迷惑だったかな?」
「いや、俺こそ申し訳ないというか……俺と八木ってそんなに仲良くないし」
と口に出した途端、再び絶叫が響き渡った。思わず耳を塞ぐが、それにしたって凄まじい音量だ。先よりも余程やかましく、耳元にヘッドホンを押し付けられているようだった。
「あ、言い忘れてたね」
その大絶叫をなんら苦にしていないように、ぽわっと八木は呟いた。声が収まった後も耳を押さえて恨めしそうにしている男とは、まるで大違いだ。
「今の、多分私の名前を呼んだんだよね?」
「え? 何? なんだって?」
「私の名前を呼んだでしょ? ここで名前を持っているのは、貴い御方だけなんだ。だから、私達は名前で呼び合ったら駄目だし、それに、自分の名前なんて忘れちゃってる」
「え? あぁ、ふぅん。そうなんだ」
言われてみると、なるほど自分の名前を思い出せない。然程珍しいことでもなければ、この状況なら困りもしないが。
「それから、この御方を名前で呼び掛けるのも良くないの。気をつけてね」
「はぁ、そうですか。はい」
気の抜けた返事をしながら、彼はその御方の方をちらと見る。またまた黙りこくって膨張と収縮を繰り返しているのみだが、この調子だとまたすぐに叫び散らかすかもしれない。どうにも厄介な塊だ。
「そういえば、俺を呼んだのもこちらの御仁だと聞いたんだけど、違うの?」
「違、くはないかな。私が頼んで、連れて来てもらったから。でも、どっちかと言うと君は私のお客さんかな?」
「あ、そういうことね。人に頼んでまで、俺なんて呼ぶことないのに」
「やだなぁ、久々に会って、なんだか卑屈になったみたい」
「いやいや、そんなことはない。俺よりも仲のいい人は塾にさえ何人もいた筈だ。ほら、あの、名前は普通に忘れたけど、小学中学、それから志望校が同じって女子もいたじゃないか」
「えーっと」なんて八木は言い淀み、殊更隠す気もなさそうに目を逸らした。男は質問を重ねず、黙して眉をひそめる。
「よく話してはいたけどね、私、あんまりあの子と仲良くないよ」
「へっ、そうなの?」と男はあからさまに驚いてみせる。八木は件の女子や、彼女を中心としたグループのメンバーとばかり親しくして、塾の行き帰りも共にしていた。それを彼も見ているのだ。
「うん。家が近いし、小さい時は話が合ったから、それからそのままって感じ。ホントは趣味も付き合い方も全然違うんだけどね」
「へぇ~、いやしかし……へぇ~」
今まで彼が考えもしなかったことだが、確かにありそうな話だと納得するところもある。八木はグループの中で談笑していても、他人に合わせて笑ってばかりいた。単に人の話を聞くのが好きなのかと思っていたが、あるいは違うのかもしれない――あくまで可能性の話だ。
「君と話してる時の方が、私もペラペラ喋ってたでしょ?」
そう言われるとそんな気もしてくるが、胸を張って「全くだ」と口にする度胸もない。「そうかもなぁ」と曖昧に苦笑いを浮かべる。
八木とは大した親交があった訳ではない。中学では3年間同じクラスだったものの、ただそれだけ。受験を前にして彼が通い始めた塾に八木がいたのも単なる偶然で、たまたま志望校まで同じだったから、集団授業の際にちょっと話したかどうかという程度だ。これでは説得力に欠ける。
「もしかして、そんなに覚えてなかったりする?」
「いや、多分覚えてると思う。君が覚えていること全部を、とまでは言えないけれど」
「ん、なんだか煮え切らないけど、一安心だね。私ばっかりご執心だったら悲しいもの」
「それは、うん、全くだな……」
同じ高校にさえ進学出来なかったのだ。八木奏は本来なら、彼のことなどとうに忘れていることであろう。あるいは負け犬くらいに思っているかもしれないが、どちらにせよ虚しくなるばかりだ。
「じゃあ、俺はもう帰るよ」
「えっ、もう行っちゃうの?」
悲観的な想像に反して、目の前の八木は残念そうにそう嘯く。つくづく都合良く出来たものだと彼は思う。無意識の内に、別の誰かの造形と混同しているのかもしれない。
「悪いけど、明日も学校だからな。顔出しはこの辺にして、話は今度ってことで」
「じゃあ、また寂しくなったら呼ぶね。いい?」
「まぁ、君達がすぐに消えてしまわないのなら」
「どうせ暇だし」と付け加えて、彼は気だるげに立ち上がった。念のため黒スライムに頭を下げると、屋敷の入り口に爪先を向ける。
それに先回りして、八木が扉を開けた。「見送りくらいするよ」ということらしい。殿様を1人にしても良いのかは疑問だったが、男はそれについて何も言わなかった。
「君、ちょっと背ぇ伸びた?」
並んで歩いてようやく気付いたのか、今更になって彼女は尋ねた。「3cmだけだよ」と男は短く返す――そういえば、塾で自習をしてから、時たま一緒に帰ることがあったかもしれない。そんなことを、こちらも今になって思い返した。
屋敷を出ると、周りで暇を潰している少女達の視線が一挙に集まり、それはまたすぐに外された。先程男を案内をした少女の姿もあったが、彼女も声を掛けてはこなかった。
そこから離れて歩を進めれば、やはり一面灰色が広がるばかりで、特段変わった様子もない。「なんもないな」とそのまんまの感想を男が漏らす。
「なんもないね」と八木。「なんもない」と再び男。その会話自体の意味もなかった。
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