愛しい人

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「離婚してくれないか」  ごくごく普通のお願いのように——それこそ『お菓子買って!』みたいに——さらりと言われたので、わたしも軽く「いいよ」と言いそうになってしまった。  それだけ普通に言われた言葉だった。 「——あぶなく『いいよー』て言いそうになったわ」 「言ってくれてよかったのに」  旦那は苦笑してコーヒーを口にする。  わたしはダイニングテーブルの対面に座り、旦那の顔をマジマジと見つめた。  結婚して16年。  お互い40代で子供は3人。1番上は今年高校受験を控えている。1番下に至ってはまだ小学1年生だ。  この状況で離婚を切り出してきた旦那に、正直殺意すら湧いてくる。ぐっと握りしめた両手の力を抜いて、2回ほど大きく深呼吸をした。  お互い長い付き合いだ。  高校の頃から付き合い始めて結婚した。人生の半分以上、四半世紀近く一緒にいるのだから、相手のことを知らないわけがない。  喧嘩も何度もしてきた。好きなところも嫌いなところも、全て見てきたのだ。  そこらの夫婦と一緒にされては困る。相手を知り、思いやる気持ちは誰にも負けない。  ——そんな自負が、わたしにはある。 「一応聞くけど、理由は? 不貞?」 「断じてありません」 「会社のお金……横領でもした?」 「しがない課長ができるわけありません」 「……ですよね」  重苦しい沈黙が続く中、わたしはため息をついて片肘をつき、トントンとテーブルを指で叩く。   「子供たち、まだ小さいじゃんね?」 「そうだね」 「3人欲しいねって話してて、みんな元気に育ってくれてるわね」 「本当になあ」 「これからどんどんお金かかってくるじゃない? 大学行きたいって言ったら行かせてあげたいし、やりたいこと、やらせてあげたいじゃんね?」 「——そうだな」 「何より家のローンだって残ってるし、それにこの前新車契約したの覚えてる? 納車、あと1週間後よ?」 「……忘れてた」 「老後にもお金備えなくちゃいけないし、本当にお金がかかるの。わかる? 直近だと高校中学って入学するんだから、それこそお金ポーンて飛んでいっちゃうんだから」  視線を泳がせ、俯き始める旦那にため息をつく。 「こんな状況の妻子を放り出して、自分は1人で優雅に暮らすわけ?」 「優雅なっ……暮らし、なんて……」  旦那は声を荒げたけれど、それもすぐに沈んだものになっていく。  離婚を突きつけられたのわたしなのに、なぜか旦那の方が悲壮感を纏っている。テーブルの上で両手を握りしめて、何かに耐えているような——そんな表情をしていた。 「ねえ、慎ちゃん」  わたしはいつものように旦那の名前を呼ぶが、旦那はというと俯きわたしの方を見ようともしない。  そんな旦那の姿に苦笑してしまう。  わたしが知らないとでも思ってる? 貴方が離婚を切り出してきた理由を。 「——あのさ、何のために保険に入ってるわけ? 死んだときだけお金がもらえるわけじゃないでしょう? 障害が残ったときとか、病気になったときとか。その手術代や入院代、いろんなの時にお金が出るのよ?」 「……鈴?」  やっと顔を上げた旦那ににっこりと微笑み、指折り数えて教えていく。 「それに住宅ローンだって病気になったってなれば免除になったりするでしょう? それに——それにね。仮によ? もし、死んじゃっても、死亡保険とか遺族年金とか色々入ってくるし、ローンもチャラ。結婚したままの方が、わたしたちにお金遺せるわよ? ……ねえ、それでも離婚するの?」  旦那は目を見開いて、わたしを見つめてくる。その瞳は少し揺らいでいる気がしたけれど、わたしは気づかないフリをして話を続けた。 「こんなつまんない話してる暇があるなら、紹介状持って総合病院行くわよ。——なに、もう諦めてるわけ?」 「そうじゃなくて……なんで、知ってる?」 「なんでも何もないわよ。健診結果の封筒、こんなところに置いておく方が悪い」  わたしはトントンとダイニングテーブルを指で叩く。旦那は「あっ」と呟いて渋い顔をする。  旦那はわたしのことを本当にわかっていない。  そんなどこか抜けた旦那が、わたしは愛おしいのだ。こんなおっちょこちょいの人を1人放り出すなんて——そんな人の手を離すなんてこと、するわけないでしょう?  あなたの嫁を甘く見ないでいただきたい。  少しくらい、嫁に心底愛されていると自覚してほしい。 「やるだけやって、それでダメなら仕方ない。だけど何もしないで諦めることはしたくない。だって、子供の結婚式参列するんでしょ? それに、歳取ったら2人で日本一周旅行行くんでしょう? 忘れたとは言わせないわよ」  わたしはニヤリと笑って席を立ち、カバンを引っ掴む。仁王立ちで旦那を見下ろして手を差し出した。 「早く行くよ。チャチャっとやっつけるわよ、そんな病気」 「——なんか、ここ数日考え込んでたのがバカらしくなるな」 「そうよ。たとえ……死んじゃってもさ、お金の心配はないわよ、逆に今より多くなるかも? ほら、気楽にいこう!」 「そんな笑顔で言うなよな」 「……1人で悩むより、2人で笑って乗り越えていく方がわたしたちらしいと思うけど、そう思わない?」  旦那は少しだけ目を赤くして、呆れたように笑った。そして旦那の手が、わたしの手に触れる。  わたしは少しこそばゆくて、照れくさくて、笑った。 「手、握ったのなんていつ以来?」 「さあ……いつだろう」  旦那もはにかんで笑った。その顔はいつも見ている、大好きな旦那の笑顔だった。 ✳︎ 「あの時……貴方が『もう死ぬんだ』ていう顔をしていた頃が懐かしいわね」  わたしは秋晴れの空の下で、1人ベンチに腰掛ける。目の前に広がる天然芝は、10月になっても未だ青々と茂っていた。 「なんだかんだで、あなたの病気も寛解したし、子供の成長も見れたし、結婚式へも参列した——わたしと2人で旅行にも行けたわ」  目を閉じれば、ひとつひとつの思い出が色褪せぬまま眼前に広がる。 「ただ、ひとつだけ心残りがあるの。あと1ヶ所行けば日本一周できたのに。それだけが残念でならないわ……きっと貴方もそうよね、慎ちゃん」  わたしは膝の上に置いていた骨箱を指でそっと撫で、愛おしい人を抱きしめる。  ふと、もう遠い昔の記憶となった結婚式を思い出す。ちょうどこの時期に行ったガーデンウェディング。そう、あの日もこんな気持ちのよい天気だった。 「——良いときも悪いときも、  富めるときも貧しきときも、  病めるときも健やかなるときも、  死がふたりを分かつまで……愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」  わたしはそっと骨箱へキスをした。  目を細めて、空の高い位置にある薄い雲を眺める。吹く風は心地よい涼しさと爽やかさがある。このまま目を閉じてしまえば、まどろみの中で貴方に会えるだろうか。 「死がふたりを分かれさせても、わたしが分かれてやらないわ。だから、ちゃんとそっちで待ってるのよ?」  また、貴方に会うその時まで、わたしは永遠の愛を誓い続ける。    
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