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4 思いがけぬこと
その日はとても気怠かった。
昨日のスカイガーデンで、雨の中、小走りで去る彼女の後ろ姿がよみがえる。
その後ろ姿がとても悲しそうで、すっぽかした彼への怒りがふつふつと沸き上がってきた。
「風邪、ひいてないといいな……」
梅雨のこの時期、外気温は29℃前後、湿度も高くてむしろ暑い方ではある。
でも、オフィスはどうだろう?
案外、冷房は冷えた体には良くない気がする。
「は、は、はくしゅん!!」
なぜか私の方がクシャミが出た。
ぶるりッと体を震わせる。
もしや……。と思って、ベッドのサイドテーブルの引き出しをまさぐり、体温計を取り出す。
ーー体温 37.7°
「ああ、やっぱり……」
引きこもり歴10年ともなると、いくらマンション内にあるジムに通って運動しても、ハウスキーパーの栄養バランスのとれた食事をとっていようと関係なく、あっさり風邪をひく。
普通の引きこもりよりは健康的な生活をしているかも? しれないが、日の光も浴びず、寒暖もない一定の温度が保たれたクリーンルームにこもりきりなのは、やはり生物としては良くないのだろう。
私は安静をとって、ベッドに横になることにした。
夕方になって、ようやく目が覚めた。
時計は17時を指し示していた。かれこれ、10時間近く眠っていたことになる。
ズルズルと起き上がると、思いのほか体の調子は良かった。
体温を計ると平熱より少し高いぐらいだったので、ホッとした。
一人暮らしの誰もが少しは思うことだろうが、格段に体調が悪い時、すぐに頼れる人がいないというのは、本当に心細いものなのだ。
だったら、外へ出てパートナーでも見つけてこい。と、言われそうだがそんなことが出来るなら、今ごろ引きこもりなどしていない訳で……。
キッチンへ行くと、ハウスキーパーが夕食の準備をしておいてくれた。
ハウスキーパーには寝室への立ち入りを禁止していた。全ての部屋を見せれるほど、私はオープンな性格ではない。
それに、必要以上の干渉も困る。
私はお腹が空いたので、テーブルに準備された、夕食を食べることにした。
和食だった。
メインは焼き鮭、副菜にひじきの煮付け、小松菜とじゃっこのおひたし、きのこと豆腐のお味噌汁、納豆ご飯。
朝ごはんみたいなメニューだったが、体が弱っている人間にはありがたい献立だった。
ご飯を平らげると、時計は18時になっていた。
私はもうかれこれ習慣化されてきてる窓際に立ち、隣のビルのスカイガーデンを見つめた。
「あっ!」
彼がいた。
本日の彼は薄いブルーのスーツだった。
涼しげで、とても彼に似合っている気がする。髪もいつものようにきちっと整えられていた。
「どの面さげて、のこのこここに来たんだよ!」
「 昨日、貴方を待っていた女性がいたんだよ。雨が降っても、ずっと貴方が来るのを待っていたんだよ!」
鼻息荒く、そうまくし立ててみたけど、彼にはもちろんそんなのは届くはずもなく、いつもと変わらず、煙草を美味しそうに味わっていた。
「……あれ?」
私は彼が白くて四角い紙を持っているのに気がついた。
あれは、昨日、彼女が去り際に足元に置いていった手紙に違いない。
口に煙草をくわえて、彼は手早く封筒を開けて、手紙を広げた。
しばし、文面を読んでいるみたいだった。
すると、スカイガーデンに彼女が現れた。
白のサマーセーターに花柄のピンクのスカートを身に付けている。
立ち姿から見て、元気そうだと感じた。
「良かった、風邪をひかなかったんだね」
母親でも、友達でも、知り合いでもないのに、私は彼女の心配を心からしていたのだった。
彼女が姿を現すと、彼はクルリと振り向いた。
二人の目と目があって、何か会話をしているみたいだ。
彼はこちらに背を向けているので、表情までは分からないが、こちらを向いている彼女の表情はよく分かった。
頬がちょっと赤らんで、とても嬉しそうな、とろけるような笑みを見せていた。
「気持ち、伝わったんだ……」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「本当に、良かったね。雨でも彼を待っていたかいがあったね……」
今の彼女の気持ちが手に取るように分かる。
きっと、翼でもはえていたら、ふわふわと飛んでいってしまいそうな、軽やかな気持なんだろうな……。
私はほくほくと笑った。
彼と彼女はしばらくの間、楽しそうにお喋りをしていた。
まだ、両思いになったばかりで、お互い話したいことは山ほどあるのだろう。
あっという間に日が傾く時間になっていた。
二人は仲良く歩きだし、スカイガーデンから出ていった。
視界から完全に消える際、どちらからともなく手を繋ぎ、両思いの完璧な証を私に見せてくれたのだった。
取り残された私は放心状態だった。
今、見てきたことは現実で起きていたことなのに、まるで夢でも見ているような気分でいた。
「この感覚……、いけそう!」
私はピンときて大急ぎで駆け出した。
今いた部屋から出ると、通路を通り、こじんまりした部屋に入って、バンッ! と、ドアを閉めた。
そして、乱れた呼吸を整えると、何年かぶりに机に向かった。
その部屋は、私の書斎だった。
一応、名ばかりの小説家な私の仕事部屋だ。
私はようやく、また小説を書く“キッカケ”を得ることが出来たのだった。
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