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楽器というものは基本、気温が高くなればなるほど音が高くなってしまうものである。特に金管楽器はその影響を受けやすい。そして、一人チューニングを外すと、全体の調和に大きく影響が出てしまうのは免れられないのだ。
私は渋々話を中断して、彼女のチューニングに付き合ったのだった。そして、その結果この話題はここで流れてそのままになってしまったのである。
これが思いがけず、大きな意味を持った疑問であったことなど気づかずに。
「指揮者いないからメトロノームであわせるねー。タイミング見て操子が吹き始めてくれればいいよ」
「はいはいっと」
全員のチューニングと練習が終わったところで、合奏を始めることとなった。最初はトロンボーンのソロから始まる。メトロノームの音に合わせて、操子がとんとんと足でリズムを取り始めた。四分の四拍子。三拍の間を空けての、四拍目。
ソー……。
ソミ♭ドド、ソミ♭ドド、レミ♭ファレ、ソレシ♭ソ。
ソミ♭ドド、ソミ♭ドド、レミ♭ファレ、ソレシ♭ソ――。
単調な四分音符のメロディー。不穏な空気を纏いながら、ゆっくりと物語は黒い湖へと漕ぎ出して行く。
後になって思えば。聴いていて気分が良くなるような明るい曲でもなく、それこそ埃を被っていたタイトルもわからないような一曲だというのに、何故私はこんなにも強く魅かれたのだろうか。面白そうだ、絶対演奏しようと思うようになっていったのか。
具体的な理由が、ないわけではない。
でもそれはひょっとしたら全て、後付に過ぎないのかもしれなかった。本当はあの譜面を見た瞬間、私も操子も何かに取りつかれていたのかもしれない。
何か。
それを“ナニ”と定義できるほど豊富な語彙を、自分達は誰しも持ち合わせてはいなかったけれど。
――ああ、雨が。激しい雨が降り始める。
唇が痛い。そう思いながらも、ハイBとハイCを吹き鳴らす私。あっという間に疲れて、音は情けなく掠れてしまう。まだ高い音をえんえんと吹き続けるだけの技量が自分にはないからだ。
それでも、そのみっともなく掠れた音さえ、味のあるもののように思えるのは何故だろう。ふと休符の瞬間にちらりと周囲を見回せば、誰もが険しい表情で楽譜を睨みつけている。寒風吹きすさぶようなホルンの音。荒れ狂う波間を示すようなユーフォの音。そして、轟くチューバの雷鳴、ついに転覆する船の絶望を示すトロンボーンの破裂するような音――。
見計らったように、私はトランペットのファンファーレを吹き鳴らす。さあ、勇敢な青年が今湖に飛び込んだぞ。愛する人を救い上げるのだ。その身が、湖の中央の聖地に辿りつけなければ、愛しい人の安らかな眠りは約束されないのだから。
青年が遺体を抱き上げ、聖地へと泳ぐ、泳ぐ。荒れ狂う波も雨も風もおかまいなしに、ただ祈りを届けるためだけに命を賭ける。さあ、さあ、さあ、あと少し、あと少し、あと少し、あと少し――。
全員で一気に低音から高音へ駆け上がる。重低音から高音までの楽器が一斉に奏でるユニゾン。走れ、走れ、走れ、走れ、さあ行け!
――今!
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