人間パソコン

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 ケイコの朝は遅い。  大学では講義時間のほとんどをWebに投稿する小説のネタを考えることに費やし、バイトから帰ってきた後は毎日一話ずつの更新を絶やさないよう書き溜めを増やしながら夜を明かす。いつ寝落ちてもいいように、パソコンはもちろん枕元。  今日もいつの間にか寝てしまっていたようだ。玄関のドアが閉まる音で目を覚ます。同居している大学院生の姉が外出したのだ。学部こそ違えど同じ大学に通っているため住まいは共同にしたが、生活する上で彼女が姉と関わることはほとんどない。ケイコはこの家にいる間は、もっぱら自室に籠りきりで過ごしていた。  液晶モニターが放つ目に悪そうな光を眺めて、脳を覚醒状態に持っていく。何に追われることもない日曜日。画面には書きかけの一節。冷却ファンの回転音が静かに響く。何とはなしに、ケイコはパソコンの縁をなぞる。友人からもらったノートパソコン。フリーズしがちな骨董品だが、それは確かに彼女の良き相方であった。  下着に薄手のTシャツを一枚着ただけの身を起こし、あぐらをかく。エアコンを稼働させると、不健康な冷気が身体に当たる。空の袋を視界の端に見つけ、いつも食べている一口サイズのチョコレートが昨夜尽きたことを思い出す。少しだけ開いたカーテンの隙間から細い陽光が差し込んでいる。どこか遠くで気の早いセミが鳴いている。  いつだったか、レポート執筆の息抜きにと、何となく思いついた物語を書きしたためてインターネットに投稿してみたのがケイコのWeb作家人生の始まりだった。素人のつたない文章とありきたりな展開でも二年も書き続けていればある程度深みが出て、それなりにランキングに載るようにもなる。その人気に反比例するように生活は乱れていったが、彼女はその心地良い堕落にすっかり身を任せていた。  彼女は自身がWeb作家であることを敢えて他者にひけらかすようなことはしなかったが、ただ一人、その昔美人作家として有名だったという祖母にだけはそれを明かしたらしい。祖母は大変喜び、ケイコに文章の書き方のコツをあれこれ教えてあげたそうだ。  ところで、確かに一定の人気を獲得したケイコだが、それに伴ってある悩み事が生じた。画面の向こうの読者から応援メールが届くようになったのである。いや、単純に応援されるだけなら、彼女にとっては間違いなく嬉しいものだ。どれもこれも「いつも楽しく読ませてもらってます!」「ずっと応援してます!」などとどこかで見たような文句が並ぶものばかりだが、それでもケイコは、せっかくわざわざ送っていただいたのだからと、ひとつひとつ丁寧に返信するよう心掛けていた。  だがそんなケイコでも「是非とも作品の批評をお願いします」と自作のショートショートなどを送りつけられると、対応に困ってしまうのであった。それも、こういう人の作品に限って、それはそれは冗長で退屈な物語を書き連ねてくる。そうと分かっていながら、一度は読んでみようとファイルを開き、そのたびにまたかと肩を落としてはぶつくさと文句を言いながら適当な感想を返す。そんなことが何度かあった。  メールボックスを開けば、今日も応援メールが数件届いている。三つの数字で表された受信時刻がずらりと並んでいるのを見て、 「世の人間は活動時間を選ばないなぁ……」  と他人事のように呟きながら、順番に返信をしていく。途中で明らかに添付ファイルがある一件を見つけ、また来たかと露骨にげんなりしながら後に回す。だが、おなかいっぱいおかわり無用の決まり文句が並んだメールを読み尽くすと、メインディッシュよろしく存在感を放つその一件が嫌でも目につく。デザートのごとく別腹気分で読めたらどんなに素敵かと、わずかばかりの期待とほとんどの絶望を込めて溜息交じりにクリック。  件名も本文もなし。そこにあるのは、ランダム生成されたような文字列が並んだフリーメールのアドレスと、テキストデータのダウンロードボタンのみ。展開すると、やはり長々と書かれた文章。しかしその冒頭は何故か「メグミさん」と、ケイコのハンドルネームで始まっている。無駄に手の込んだ応援メッセージなのだろうか。それもそれで迷惑だなと独りごちながらも数行読むと、そこから、どうにも他の駄作駄文とは違う異様な雰囲気が感じられ、彼女はどんどんその文章に惹きつけられていくのであった。
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