鏡の中の悪魔

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 あかりは、ベッドの中でなかなか寝付けずにいた。  夏休み真っ只中の、8月の半ば。  明日は、女子の友達2人と海へ遊びに行く予定だ。  ギラギラと照りつける太陽も、心身共にパワーの漲る高校2年生には浮き立つ心を一層掻き立てる舞台装置だ。  輝く海辺で気の合う仲間と思い切り楽しむ、待ちに待ったひと時。そんなことを思うと、どこかそわそわと落ち着かず眠気もやってこない。  枕元のスマホを見れば、深夜0時をちょうど回ったところだ。 「……何か飲も」  あかりはふと喉の渇きを感じ、ベッドを出た。 「——……」  何気なくドレッサーの前を通った瞬間——  あかりは、鏡の中の自分のすぐ後ろを、黒い影がゆらりと過ぎるのを見た気がした。  室内はベッドサイドの照明しか点っておらず、薄暗くてはっきりと見えたわけではない。  けれど——  鏡の奥に(よぎ)ったその影を認識すると同時に、自分の背筋がすうっと冷たくなる感覚が走った。 「………………何……?  誰……っ!!??」  突然襲ってきた尋常でない気配に、あかりは激しい恐怖にかられる。  金縛りにでもあったように鏡の前に立ち竦み、ぎゅっと縮こまる声帯から必死に声を絞り出す。 「——静かに。  人に気づかれちゃ困る」  後ろから、不意に声がした。  やはり、誰か——いや、何かがいる。  血の気の引いた顔で、あかりは鏡の中のその影を凝視する。  あかりの視線に応えるように、その影はゆらりと移動し、あかりの背に寄り添うようにひたと止まった。 「よかった。君が気づいてくれて。  君に認識されなければ、出てこられなかった」  耳元でそんな囁きが聞こえると同時に、鏡の中の影が見る間に実体化してゆく。  あかりは自分自身の目を疑ったが、それは間違いなく目の前で起きており——信じたくなくても信じる以外にない。  すらりとした長身に、漆黒の髪。  真夏だというのに肌をくまなく覆う、真っ黒い衣服。  声や体格から判断すれば、男だ。  あかりの肩越しに、彼は伏せていた顔をゆっくりと上げる。  ——青白いほどの肌と、氷のような灰青色の瞳。  研ぎ澄まされた端正な顔立ちをした、美しい青年だ。  左の耳に、その瞳と同じ色のピアスがチラチラと揺れる。  鏡越しに、確かにその姿は見えるのに……背中には、凍るような冷気しか感じない。  恐ろしさのあまり、振り向いてその実体を確認などとてもできない。 「——……だ……誰よ!?」  あかりは鏡の中の青年に向かって必死に叫ぶ。  そう聞きながら、バカバカしい質問だと心のどこかで思う。  ——どう考えても、これは人外だ。 「俺は、『魔』だ」 「——……」  ……ああ、やっぱり。 「魔」って——悪魔、だろうか。  いずれにしても、いい予感は全くしない。  彼は、美しい無表情のまま静かに唇を開くと、淡々と告げる。 「君の運命を、教えにきた。  ——君は今日、命を落とす」 「…………」  その瞬間——  ひたすら恐怖に慄いていたあかりの中に、自分でも予想しなかった怒りが突然湧き上がった。 「……はあ?  魔だかなんだか知らないけど、勝手なこと言わないで。  なんであんたにそんなことわかるのよ!?」 「——昨日、ボスの……いや、『神』の部屋で、偶然見たからだ。  君のノートの今日の日付に、そう書き込まれているのを」 「……」  神のノートに……私が今日死ぬ、と? 「あのノートに書かれていることは、変更ができない」 「——……  嘘…………」  衝撃で、目の前が暗くなる。   膝がガクガクと震え、崩れ落ちそうになる。  ——待ってよ、私。  こんな話、冗談じゃない。そうでしょ?    あかりは心の体勢を必死に立て直す。  ここで「ああそうですか」と大人しく納得する気になどなれない。絶対に。  魔だろうがなんだろうが、そんな話にこれ以上耳を傾ける気はない。 「——あっあんた、どうせ悪魔とかそういう類でしょ!? あんたのそんな話なんか信じるわけないじゃない。そんな一言で死んでたまるかっての!  そもそも、なんでそんなことをわざわざここまで教えにきたのよ? 余計なお世話なんだけど!?」 「俺は、『リュウ』だ。——君の言う通り、悪魔だ。修行中だけどな」 「あっそ。すぐ帰ってもらうから名前なんて必要ないけど。じゃリュウさん、今すぐここから消えてくれる?」  あかりはぎりっとリュウを睨み据えると、半ば破れかぶれに言葉を投げつける。 「リュウでいい。『さん』の分だけ時間が無駄だ。君にはもうあまり時間がないんだから。  ——一つだけ、君を救う方法がある。  俺はそれを伝えに来たんだ」 「あーー!! 時間がないとか救うとか、これ以上おかしなこと言うのやめてってば!! ほんっとウザい!!  今すぐ消えないと、この鏡叩き割るからね!!」  あかりはドレッサーの椅子を力任せに掴むと頭上に大きく振り上げ、鏡の中のリュウをめがけて狙いを定めた。 「——!……」  その剣幕に、リュウはふっと気配を消した。  凍るように冷たかった背筋も、同時に鎖が溶けたように解放される。 「……っはあっ、はぁ……」  振り上げていた椅子をガタリと降ろし、あかりは荒い息のまま腰が抜けたようにその場へ座り込んだ。 「——なによ、あんな胡散臭い魔物!!」  あんなものの言葉には、取り合わない。  追い払ってしまえば、それで済むことだ。  今のは——なんか悪い夢でも見ただけ。  そうに決まってる。  あかりはそのままベッドに潜り込むと毛布を頭からかぶり、今見た全てを脳から消去するようにぎゅっと固く目を閉じた。
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