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――将来の夢
緑色の空の上に描かれた白い雲のような文字。それを自身たちの『使命』として受け取った生徒たちは、まっさらな用紙にペンの影を落とす。
高校生といえば、受験や就職を控える、貴重な時期だ。それらの試験に出題される、小論文の練習として、二年にあがったこのクラスでは、作文の課題が多く出るようになっていた。
目の前の、均等な升目だけが描かれた紙。
少女、水帆は、未だ芯を出していないシャープペンシルで、その端をトンっと叩く。
将来の夢。自身がそれを問われた時、何を書くべきか、ということなど分かっている。けれど、いざ、それを目上の者に評価される内容として文章にするとなると、それなりに、頭を使う必要がある。
まずは結論から……とそう考えた時、彼女のその集中力は、賑やかな声によって遮られた。
「つか、将来とか、どうでもよくね?」
「考えたくないでーす」
好き勝手な回答をするのは、教師たちから、不良と呼ばれる、男女のグループだ。楽しいことだけを求めていたいその人物たちにとって、自身の将来と向き合い、それを文章にしたためることなど、無意味で無価値であることに思えて仕方ないのだろう。
「光星(こうせい)は、なんて書く~?」
「……あ?」
一人の女子が、すぐ隣の男へと話しかけた。
窓際に座るその青年の姿を、水帆は後ろを振り向くことはなくとも、想像することが出来る。
机の上に足を乗せ、不機嫌そうに眉を寄せる、青年だ。
アッシュグレーに染めた髪の天辺は、一部黒へと変わっており、重たい前髪の中から、鋭い眼光を覗かせている。両耳のシルバーリングのピアスは、校則違反と呼ばれるそれであるのに、堂々とその光を放っていた。
「俺も、別に書くことねぇよ」
光星と呼ばれた青年は、口の端だけを持ち上げて、真剣に課題へと取り組む生徒たちを、あざ笑うようにする。
「市之瀬は、早く女とヤれますように、とかにしとけよ! んで、笹に結んどけ!」
「なにそれ、七夕じゃん!」
「んなこと書くかよ。お前らの方こそ、頭がよくなりますようにって書けよ!」
「だから、七夕じゃん!」
その会話に、教室中からクスクスと漏れる笑い声。
多くの生徒たちの集中力が切れていくことに、危機感を覚えた教師は堪り兼ねて「静かに!」と声を張る。
その音を聞き、水帆は再び、作文用紙のマスの中へと意識を沈み込ませた。
「水帆は、今日の作文、なんて書いた?」
授業の時間が終わり、放課後。
水帆が、教科書などの荷物をリュックサックへと詰め込み終えると、一人の少女が声をかけてくる。
彼女、詩織とは、この高校へ入学してすぐに友達になった仲だ。二度、同じクラスになれたことは、「運命!」と抱き合ったことも記憶に新しい。
「先生になりたいって書いたよ」
水帆は少し恥ずかしそうに、頬を染めてそう返す。それは、小学生のころから、ずっと同じ内容であるのだ。
「教育学部志望だもんね、二年になったばかりなのに、ちゃんと将来の目標が固まっててすごいね。もしかして、お兄さんの影響?」
水帆には年の離れた兄がいる。最近、教師になったばかりの兄だ。
「それも、あるかも」
やはり、家族というのは、身近な指針でもあると言える。自身の将来の夢が、それの影響と問われれば、少なからずあるかもしれない。
「あとは、単純に、誰かに何かを教えることが好きなんだ。それだけ」
「いいなぁ~私は、別に仕事に出来そうな好きなこととか、やりたいこととか別にないし」
リュックを背負い、二人は横に並んで、下駄箱の方へと廊下を進んでいく。
すると詩織は、キョロキョロとあたりを見渡し、声を潜めた。
「市之瀬たち、今日も騒がしかったね。七夕のやつは……ちょっと面白かったけど」
「そうだね」
詩織の堪えるような笑みの浮かべ方に、水帆もつられて微笑む。
あの不良グループを、もちろん嫌っている生徒も多くいるが、どちらかというと、詩織のように、まるでテレビドラマを見ているように、客観的に観察している者の方が多い。
自分とは住む世界が違い、永遠に交差することはない存在。
昨日の俳優のあのシーン、よかったよね! 同じ教室内の出来事だというのに、そんな感想を聞いている気分だ。
「一年の時のクラスには、ああいうタイプの男子っていなかったでしょ。だから新鮮で……って、あ、市之瀬は、水帆の幼馴染なんだっけ」
詩織は、ふと、過去に彼女から言われたことを、思い出し、そういう。
「うん、光星くんとは、家も近所で、昔はよく遊んだよ。もう、何年もまともに会話してないけど」
水帆は、自身の幼馴染の幼い頃の姿を思い出す。
背丈も女子の水帆と変わらず、かけっこさえも自分より遅かった彼は、どこか引っ込み思案で。同い年の水帆のわがままや指図を、喜んで聞くような、受け身な少年だった。
「幼馴染ってことがもはや、意外だなぁ。遊ばなくなったのは、やっぱり、市之瀬が不良になっちゃったから?」
「そうなのかな。途中で急に、態度が冷たくなっちゃって」
「ああ、思春期ね」
詩織は、やれやれというように首を振る。きっと自分たちだって、それに該当する年齢なのではないかと思うが、達観したかのような彼女の態度は、少し面白い。
「同じ高校に入学したんだぁ~と思ってたら、いつの間にか、今の感じになってたの」
「じゃあ、不良は高校デビュー! ってやつなんだ」
秘密を知ってしまったというように、ニヤニヤと笑みを浮かべている詩織。さらに、情報を提供しましょうか? というように、水帆は彼女の肩に近づく。
「昔は、かわいかったんだよ。水帆ちゃん水帆ちゃんって、追いかけてきて、」
「ええ~、うそぉ!」
「おい、」
二人が肩を寄せ合って、コソコソと話していた、その時。
ふと、後ろから低い声が聞こえた。男子のものであるそれに、二人は背をびくっと跳ねさせ、後ろを振り向く。
「……邪魔」
「あ、ごめんね」
そこに立っていたのは、噂をしていた市之瀬光星であった。ちょうど、水帆と詩織が立つその場所は、光星の下駄箱の前であったらしい。
二人が、そろそろと後退すれば、そこから乱暴に靴を取り出す、光星。
かかとがつぶれたそれを地面へと投げ、そのまま引っかけるように履いていく。
「そういえば、水帆、委員会は?」
その汚れた靴を見たせいだろうか。詩織は、水帆が所属する風紀委員のことを思い出したようだ。
水帆は、痛いことを聞かれたというように、苦く笑う。
「今日は休む、ことにした」
「さては、サボリ? 将来の先生がそんなことでいいのー?」
「そういうつもりじゃないんだけど……ちょっと今は、ほら、気まずいし」
「ああ、例の先輩の告白ね。それで、付き合うの?」
そういう詩織の言葉に、水帆は思い出す。
昨夜、携帯に送られてきた『付き合おう』のメッセージのことだ。
同じ風紀委員に所属する三年の先輩とは、確かに仲は良いといえるのだろう。
詩織への回答として、水帆は口を開く、より早く。
「はッ!?」
まるで、爆竹が上がるような大声が、前方から聞こえた。
その方向に目をやれば、先を歩いて行ったと思っていた、光星が、こちらに丸い瞳を向けている。
「……っ、」
そして、女子二人と目が合うと、舌を打ち、そのまま走り去っていった。
「な、なんか、今、市之瀬、すごい反応してなかった? うちらの話、聞こえてたのかな?」
「ど、どうかな……」
「市之瀬、彼女がいないこと、いつも周りの友達から、からかわれてるもんね。幼馴染の水帆に恋人が出来ちゃうことにも、焦ったのかもね」
詩織はまるで推理するように、そう呟く。
水帆はそれに再び「どうかな……」と呟いては、もう見えない彼の背中を視線で追った。
「あれ、光星くん?」
それは、水帆が一人、自宅の前へと辿り着いた時だった。
一軒家である水帆の家の、その玄関を塞ぐようにして、一人の男が立っている。
見れば、あれは、自身と同じ高校の制服であり、そしてあの光を反射するような、グレーの髪色をした高校生など、この辺りには、一人しかいないだろう。
水帆がそう声をかければ、青年はビクリと肩を動かし、いじっていたスマートフォンから顔を上げた。
そして、何か言いにくそうに口をモゴモゴと動かす。
「……聞きたいこと、あんだけど」
それは低く、そして小さな聞き取り辛い音だった。
背中を内側へと曲げれば、水帆には、自身と同じくらいの背丈に思えた。
そんな彼の様子が、なぜか、水帆には幼い頃の、あの引っ込み思案な少年と重なっていく。
「えっと、良かったら、私の部屋あがる?」
「っ……いいのかよ」
「う、うん」
断られるだろう。そう思って発した言葉。
だが、光星は、分厚い前髪から、重たい視線を向けてくる。それに、ひやりとしたものを感じながらも、水帆は彼を部屋へと招いた。
「昔はよく遊びに来てくれたよね。あ、お母さんはいないから安心して」
仕事中の母親はしばらく帰宅しない。それは、幼い彼とよく遊んでいた頃と変わりなかった。
そもそも、彼女が今家にいれば、光星は母の世間話に、無理に付き合わされることとなり、水帆と二人きりで話すどころではなくなってしまうだろう。
水帆は、男を部屋の中央へと座らせ、そして、何か飲み物を用意しようと、すぐに立ち上がろうとする。
けれど、それを引き留めるように、男が俯きながら言葉を発した。
「……今日、付き合うって、言ってた」
「え、あ、先輩のこと?」
教室の友人たちと話している時より、だいぶ暗い表情である光星。それと、男が出してきた話題に、不安を感じながらも、水帆はそう、質問を返す。
光星は、眉をひそめた。
「先輩って……どんなやつ?」
「同じ風紀委員の先輩。優しくて真面目な人、だと思うけど」
なぜ、光星がそんなことを聞いてくるのか。それに、様々な感情が入り混じった緊張を水帆は覚える。
瞬間だ。ドンっと、光星は、自身の膝の上を拳で殴った。
「ッ、なんでっ! なんで、そんなやつっ! お前のタイプじゃねぇだろ!」
男が怒鳴るように発した、その声の音量。それに驚き、水帆は目を丸くさせるが、男の言葉の意味がわからない。
「え、タイプって、」
「それとも、他のやつらみたいに、告白されたからってだけで、付き合うのかよ! 付き合ったら、キスとかその、先だって! される、かもしれねぇのに……」
男の表情は、まるで地面へと沈み込んでいくように、どんどんと暗いものになっていく。「いや、まだ付き合うとは」と彼女は答えようとするが、それを聞いてくれる余裕はなさそうだ。
大きな手のひらで目元を覆い、男は体を小刻みに震えさせる。
「んなのっ、ぜってぇ、やだ……俺の方が、水帆のことっ、好きッ、なのに……」
「え、へ!」
瞬間、男が堪え切れずに発した言葉。
それに、水帆の心臓がドキンっと高鳴る。
「こ、光星くん、私のこと好きなの?」
期待や、希望を込めてしまう問い。
けれど男はそれには答えず、ドンドンっと自らの膝を何度も殴った。
「ッ、お前の好きなタイプに近づけるよう、俺なりに努力して、それで、こんな見た目とか、なって、それなのに、ぜんぜんっ、襲ってこねぇし! 俺、ほんっとバカみてぇ……!」
「え、見た目? お、おそ、う?」
男が怒鳴るように発するその言葉の意味がやはり分からず、頭を傾ける、水帆。
それよりも、彼のそもそもの勘違いを解かなければ。いや、解きたいのだ、という強い意志を持つ。
「あの、ね、光星くん、私も光星くんのこと、好き、なんだけど……」
発した先から、熱を持ってしまう言葉。
喉が渇き、心臓が今にも舌の上を滑って出て行ってしまいそうだ。
「は? へ?」
光星は、呆気にとられたように、ポカンっと目と口を開く。
「だ、だって、せ、先輩は?」
「……断ろうと思ってたよ。光星くんに片思い中だから」
そう、自分はずっと、幼馴染の光星に想いを抱いていた。
それはいつからではなく、最初から、だったのだろう。けれど、気付いたのは、彼の態度が冷たくなってからで。
また、前みたいに、二人で宿題をしたり、おしゃべりをしたり、遊んだりしたい。
それは、ただの友人や幼馴染だから、という理由ではないだろう。
自身にとって、他の異性よりも、彼の存在はきっと特別なものだったのだ。
「っ、あ……」
「光星くん?」
男は、そのポカンっとした表情のまま、か細く息を含んだ声を発した。
そして、頬を染めた表情で、こちらを上目遣いに見上げる。
「そ、それって、つまり、俺たち、付き合うって、こと、か?」
「う、ん。光星くんがいいなら」
そう答えた時、彼女は思った。
胸の中を占めるこの温かい、苦しみはなんだろう。
緊張と不安と、そして喜びと期待で、今にも涙が出てしまいそうだ。
「っ、ほ、本当に?」
「う、うん」
「それって、その、つまり、キスとか、それ以上とか」
「……する、ことになっちゃうね」
自分たちの今後の関係を、確認するような光星の台詞に、水帆も顔を赤くさせる。
すると光星は、ゴクンっとつばを大きく飲み込んだ。
「ッ……!」
「なんか意識すると恥ずかしいね……って、え、光星くん?」
いつの間にか、だろう。
視線を上へと向ければ、目の前に男の顔。
硬く目を瞑っているそれは、幼いころ、かくれんぼの鬼役をした彼が、目を閉じていた時の表情そのものだ。
だがしかし、今、水帆はどこかへ隠れるつもりなどない。とすればこれはきっと、水帆からのキスを待っていると表情ということなのだろう。
な、なぜ……? とは思いつつ、光星をこのままにしておくことも出来ず、水帆は決心を固めると、男の肩へと手を添えた。
そしてそのまま、ゆっくりと、唇を近づけ、それに触れる。
「っ~……!」
すると目を開け、自身の唇へと指先を当てる男。その感触を実感するように、小さく息を詰まらせる。
その恥じらいながらも、喜びを噛みしめるような彼の姿を見て、水帆も、内側から感じたことのない、何かが押し寄せてくるような感覚を味わっていた。
「も、もう一回、する?」
水帆が思わずそう尋ねれば、コクンっと男は顎を引く男。
再び触れる唇。さきほどよりも、互いの唇の表面の、その柔らかさを確認しあうようなそれだ。
「あ、水帆ちゃ、ん、」
男は惚けたように、水帆の名前を呼ぶ。
そして、彼女へと前屈みに近づいた。
「っ……もう、俺、我慢でき、ねぇ」
「え、ま、まって、光星くんっ」
近づいてくる、欲の詰まった瞳と熱っぽい表情。それにドキドキと心臓がうるさい。
「このままっ、お、おれのこと、めちゃくちゃにっ」
「ちょ、ちょっと早いんじゃないかな!」
そんな言葉を発したのは、互いに同時だった。
自身の声量が大きかったためか、光星の台詞は聞き取ることが出来なかった水帆。
しかし、光星は、「っ、いや、そう、だよな……」と、息を吐き、身を離していく。
彼が、そういう年頃というのは、達観ぶるつもりのない水帆でもよく分かっている。
それに、恋人がいないと友人たちにからかわれていた彼は、もしかすると、自分と付き合うまでは、他人との行為をずっと我慢していたのだろう。
そう思えば、愛おしくも思え、水帆は、また、口の先から飛び出そうになる心臓を飲み込み、彼の膝へと手を置いた。
「光星くん、すき、だから、ね」
「ッ……お、おれ、も、すきっ」
安心感を持たせようとした、水帆の台詞。
それに、光星は現役の不良とは思えないほど幼く、たどたどしく、余裕のない返答をする。
それに水帆は思わず、微笑んだ。昔の癖で、男の頭を、ぽんっと撫でると、立ち上がる。
トレーの上に置いた、二杯の冷えたジュースと、ポテトチップスを用意するためだ。
一時停止していた日常が、再び色を付けて動き出すような。そんな予感が、水帆にはしていた。
しかしそれは……。
「水帆、あ、頭、撫でてくれた……こ、このまま、不良の俺を更生させるために、水帆はきっと……ッあああああああ」
水帆の予感とは、きっと違う日常になるのだろう。
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