あるプロポーズ

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まただ。 視界の片隅。 ピントを合わせるように意識を向けると人差し指が机を叩き続けている。 それに気付いて私は行き詰っていることに気付き、漠然とした焦りと苛立ちにも気付かされる。 「これじゃあ、どっちが主体か分からないわね」 声をかけられ顔を上げると詩穂の姿。両手でひょうたんのような輪郭をした丸皿を運んで来ている途中だった。 「焦っても仕方ないときは仕方がないものよ」 「そうかもしれないが……」 なら、どうすればいい? そう私が尋ねる事を予期していたように詩穂は皿を置いて口角を上げ「今、できる最善のことをすればいい。はい、これ」と私に箸を渡してくる。 眼前からは中華独特の快い香り。 細切りパプリカピーマンによるカラフルな見た目。 「青椒肉絲、好きだったでしょ?」 立ち上がり際に詩穂が言い、「確かに」と私は遠のく彼女の背中に向けて答えた。 両手にご飯茶碗を持ち戻ってくると私は自分の分を「ありがとう」と言って受け取り、彼女は向かい合う形で座る。 私たちは夕食を食べ始めた。 カーテンには沈みかけの夕日が赤々と灯り、私たちは黙々と食べた。 今の職場には不満がある。 資金が足りないのだ。 自由に使用できる資金が。 自分の研究を成就させたい。 それだけの話だ。それ以上でもそれ以下でもない。 だからこそ今度の話は魅力的だった。 環境は大きく変化する。とても大きく。 疑わしいと思うのも必然で、詐欺の類の可能性も否めない。 「いいんじゃないかな」 思わず私は箸を止めた。 顔を上げると詩穂の顔。呆れたような表情だ。 「どうせまだ迷っているんでしょ?」 「……当然だよ。向こうは自由の国なんだ。だったら性善説があるかどうかも自由だろ?」 「そうかもね」 ふふっと詩穂は少し笑った。 私は笑えない。 不安も苛立ちも、自分が思っていた以上に溜まっていたのかもしれない。 「もしあなたが行くなら――」 そう言って彼女は立ち上がり「おかわり、いる?」と私のほうに手を伸ばす。 「う、うん」 私は茶碗を渡し、彼女は再び背を向けて歩いていく。 彼女は何事もなかったように戻ってくると私にこんもりとご飯が盛られた茶碗を渡そうと手を伸ばしてくる。 私は立ち上がってそれを受け取った。 詩穂は座り、おかわりした自分の白米に箸を伸ばしながら「私もついていくよ」と言った。 「……ふふっ」 私は笑った。 久しぶりだった気がする。 私はゆっくりと座ると茶碗を左手に持ち、右手で箸を掴むと 「結婚するか」 そう声をかけた。 湯気を上げる白米から、ゆっくり視線を奥に移していく。 詩穂も箸を止めていた。 目が合う。 彼女は僅かに微笑む。 「たまにはいいこと言うのね」 そう言われて私は何と言えばいいのか、分からなかった。 だから反射的に出た言葉しかなかった。 「たまには余計だろ」 「だったら、これからは常にいいこと言ってよね」 そう言って妻は大きく微笑んだ。 どうやら彼女の方が私より一枚も二枚も上手であるのは確かで、かといって三枚目には成りたくない。 だから詩穂の前では常に二枚目で納まるように居たいものだが、それも厳しいかもしれない。 それでもこの瞬間に新たな夢が芽生えたのは、確かなことだった。
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