エロティシズムと同居人

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「縛られてくれないか」  鏡越しに目が合って、私は濡れた髪を拭っていた手を止めた。  ちょうど男の肩幅分開かれた脱衣所の扉は朝風呂を浴びる前に閉めた記憶がある。何となしに男の手元を見ると、引っ越しの時に出た段ボールをまとめて以来お目にかかっていなかった白いビニール紐が握られていた。球状の根本は脇に抱えられている。 「縛られてくれないか」  まるで平生と変わりない声で男が繰り返す。適度に低く、落ち着いたトーンだ。目線を上げると、やはり落ち着き払った顔がある。私はタオルを洗濯機に放り込み、人差し指で巻いた髪をヘアクリップで頭のてっぺんに留めた。抜け落ちた髪が一筋、指に絡みついている。縛られているみたいだ。 「変態」 「何を言い出すんだ、君は」  こっちの台詞である。髪の毛をゴミ箱に捨てて振り返ると、やる気のない殺人犯、もとい同居人、黒澤卓(くろさわたく)が敷居に棒立ちしていた。 「SMなんて変態以外の何者でもないでしょ。ちょっとそこどいて」  ひょろ長い身体を押してキッチンへ向かう。私は喉が乾いているのだ。  同居を始めた当初から透明人間のようだった卓は、相変わらず、いるんだかいないんだかわからない静けさで現れたり消えたりしている。思い返してみれば、ここ二ヶ月、おはようとおやすみしか言っていない。やっと挨拶以外の会話に発展したというのに、第一声が縛られてくれなんて呆れてしまう。  ビニール紐を携えたまま後ろをついてきた卓を尻目に、私は冷蔵庫から炭酸水のミニボトルを出した。 「サルトルだよ」 「はあ?」  しゅわしゅわぁ。ごっくん。炭酸水の喉ごしを楽しんでいると、卓が口火を切った。 「三島由紀夫によるとね、サルトルが『存在と無』の中でこう言っているそうなんだ。世の中で一番猥褻なものは縛られた女の肉体である。相手が意思を封印されている。相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が一番ワイセツで、一番エロティシズムに訴えるのだってね」  三島由紀夫はさすがに知っているが、なるほど、サルトルは哲学者だったか。名前しか知らない人物を引用されると、ただでさえ突拍子もない卓の言葉の理解に倍の時間を要する。サルトルの著書について三島が語り、それを卓が説いているという構図なわけだ。 「それで、何で私が縛られるのよ」  長話の気配に、私はカウンターに両肘をついた。  中天を過ぎた太陽の光が差し込むキッチンは暖かく心地よい。こんな気持ちのいい日曜に、卑猥だのエロだのとは空気の読めない男である。 「君と暮らして二年になるけれど、一度も襲いたくなったことがない。僕は不能ではないし、君に性的魅力がないに違いない」 「失礼な」  カウンターを挟んで対峙する卓は淡々として、怒るのが馬鹿馬鹿しいほどだ。何より、久方ぶりに向き合う端正な顔立ちが、忘れかけていたときめきを呼び起こすのが悪い。  ビニール紐が胸の高さに掲げられる。 「そこで、サルトルの理論に基づいて君にエロティシズムを備えさせた上で、僕がどう感じるのか確かめてみたいんだ」 「他でやってくれない?」 「いいの?」 「……ちょっと嫌かも」 「じゃあ」 「嫌です」  不毛なやり取りだ。湯上がりの女性を目の前にして、性的魅力がないに違いないなどと言うそちらの方こそ何処か悪いのではないだろうか。 「何で今さらそんなこと確かめる気になったのよ?」  結露したボトルがカウンターを黒く湿らせている。返答いかんによっては凶器になるなと思いつつ、私は卓に問うた。 「色気のない女にサルトルが通用するかどうか、純粋な興味だよ」  ミニボトルに指をかける。 「寝言はうるさい。食事はもっぱらコンビニ弁当か牛丼で毎晩寝酒にビール」  握りしめて、ぐっと力を込める。 「手料理ひとつするわけじゃなし、唯一の女らしさと言えば化粧をしていることくらいだもんな。これじゃあ男っ気がなくて当然」  On your mark.......Go!!! 「いたっ!痛い!」 「働く女性を何だと思ってんのよ。このプー太郎」 「本気で殴ることはないだろう!乱暴な女だな!」  そういうところがいけないって言うんだ!憎まれ口を叩きながら、卓はカウンターから距離を取った。身を乗り出しても届かないボトルが空振られる。 「そもそも、君が悪いんじゃないか!」 「はあ?自分の不能を棚に上げて私に魅力がないとか言い出したのはそっちでしょ?」 「だから、僕は不能じゃない!」 「風俗でもAVでも試してから言いなさいよ」 「そんなものに頼らなくても女には不自由していない!」 「あっそう!」    私はお綺麗な顔面めがけてボトルを投げた。真正面から衝撃をくらった長身がよろめく。 「……君のためを思っての提案だったのに、僕は選択を誤ったようだ」 「あんたが勃つか勃たないかの実験のどこが私のためなのよ」  この期に及んで被害者意識を捨てない卓に、私は鼻息荒く腕を組んだ。「下品な言葉は慎みなさい」と嗜めるのを睨み返す。  30秒の沈黙の後、卓はビニール紐を持ち直した。
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