そうして彼女は口を尖らせた

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 そうして彼女は口を尖がらせた  週末だというのに雨が続いている。『これじゃあどこへも出掛けられないじゃん』と、牧口栞は少し憂鬱になった。別段予定が入っているわけではないが、せっかくの休日に天気が悪いのは、誰でも気分は盛り下がる。  割と静かな夕刻のオフィス、もうすぐ定時で仕事が終わる。今夜も栞にはデートの予定などない。これまでもそんな予定が入っていた金曜日は暫らくなかった。カレシいない暦がもうすぐで4年になろうとしている、そんな週末。  栞はチラ、と時計を見た。すでに机の上は片付き、チャイムが鳴ればすぐに席を立つことができる。後2分少々、心の中でカウントダウンが始まった。いつもこの瞬間はわくわくする。そんな時に上司の寺崎の靴音が聞こえると極度に緊張が高まる。何故なら急な残業を頼まれたことが何度もあるからだ。  寺崎はこちらの都合などまったく考えない。書き殴ったレポート用紙を何十枚も抱えてきて、「ワードで清書してくれ」と、どさりと栞の机に置くことが、もしかしたらそういう意地悪をするのが趣味なんじゃないかと思えるくらいに多くあった。救いなのは、栞がその仕事を終えるまで寺崎は他の仕事をして、帰りには必ず夕食をご馳走してくれることだった。確か先月はちょうど給料日前日の超金欠状態で、地元のスーパーで89円のカップ麺を夕食に充てる覚悟をしていた日だったので、逆に嬉しかったのを憶えている。その夜は居酒屋で、焼き物やサラダを注文してたらふく食べ、軽く酒も飲んだ。寺崎が奢ってくれるのを判っているくせに、支払能力の無いほとんどカラの財布を出す気遣いも忘れなかった。  寺崎は栞より八つ年上の36歳で、なかなかの男前なうえに仕事もできる。周囲の女性社員の評価も高い。栞にとっても、そんな急な残業を頼まれなければ上司としては申し分なかった。それに、寺崎には妻がいる。だから、残業の後で夕食に誘われても、酒でほろ酔いになったとしても、修羅場に発展する恐れのある不倫な恋愛に走るような気にはならなかった。また、寺崎ももちろん、軽はずみな行動はしなかった。  白い壁に掛けられた電波時計の秒針の進み具合が、やけに遅く感じられる。今日は金欠ではないから、寺崎に声を掛けられるのは遠慮したい。ところが、栞の視界の隅で寺崎が何枚ものレポート用紙をわし掴みにして席を立つのが見えてしまった。  『えっっ!? ちょっとかんべんしてよ?・・・』  そして栞の悪い予感は当たってしまった。寺崎は栞の左肩口から、  「牧口さん、悪いんだけどさ、コレ清書して」  と、きれいになった机の上に、無造作にレポート用紙を置いた。  「え・・・あ、はい・・・」  断りきれない。この後に約束があれば別なのだが。栞は下がった機嫌を顔に出さないように注意し、そのレポート用紙をノートパソコンの横に置いた。いつもの枚数よりもずっと少ないボリュームに、栞は少し安心した。共有ファイルに新しいファイルを作ると同時に終業のチャイムが鳴った。他の社員はこぞって帰り始める。『お先に』もあれば『ご愁傷さま』という労いだか皮肉だかわからない声を掛けられ、『お疲れさま』とお決まりの台詞を返しつつ、レポート用紙を睨みながらキーボードをたたく。一枚目を打ち終えるころには、すでに他の社員はみな帰ってしまい、オフィスには栞と寺崎だけが残った。  「・・・あら? なにこれ」  栞は二枚目に目を通して違和感を覚えた。一枚目との繋がりの無い、まったく違う内容の文章がそこにあった。三枚目も四枚目も見たが、やはり一枚目とは違う。二枚目に続くものとして、全部で八枚あった。  「寺崎さん、これは・・・?」  「ん? あ、もう一枚目終わった?」  「えぇ、二枚目から全然違うものになってますけど・・・」  「いいんだ。清書してくれれば」  なんだか上から押さえ付けられるような不快感・・・しかし、寺崎のその声は優しかった。ワードを打ちながら読み進めるその文章は、小説だった。しかも中身は恋愛小説だ。『なんでこんなものを?』 『寺崎さんが書いたの?』 『ふーん、社内恋愛か・・・わりとありきたりな展開ね。それに雑だわ』・・・などと雑想しつつキーを打つ。最後に、段落や台詞の部分に改行を加え、もう一度読み直してから一部だけプリントアウトした栞は、ステープラーで綴じて寺崎に持って行った。  「終わりました」  「おぉ、ありがとう。・・・で、読後の感想は?」  「・・・えと、その前に、これ、何なんですか?」  「見ての通り、小説だよ」  「いえ、そうじゃなくって・・・」  「あぁ、俺は自宅にパソコン持ってなくてね、自分で打つ時間もないから、牧口さんに頼んだんだ。悪かったね、貴重な週末に」  「いえ、それはいいんですけど」  「で? 感想は?」  「あともうひとつ、これは誰が書いたんですか?」  「まぁ、それはいいじゃないか」  「それによっては感想の付け方が違います」  「いや、感じたままに言ってくれる方がいい」  「はぁ・・・。えと、寺崎さんが書いたんだとしたら・・・もう少し展開にヒネりがあってもいいんじゃないかなと思います。もしもっとお若い方、高校生とか中学生とかが作者なら、大人の恋愛を描くにはちょっと背伸びしすぎでしょうね。せっかく結婚したふたりなのに主人公はあっさりと他の男に走るじゃないですか。何が言いたいのかさっぱり解からないんですよ・・・。あ、これってあらすじですよね?」  「ん?・・・うん、あらすじだ、な。・・・そうかぁ・・・イマイチか」  寺崎は口を真一文字に結び、少し残念がった。その様子から栞は、この小説の作者は寺崎本人であることを感じ取った。  「よし、お礼に夕食ゴチだ」  「え・・・でも、今日のは仕事じゃないですし・・・」  「いいんだよ。牧口の時間を買ったと思えばお安いもんさ」  『私の時間を買う・・・?』  栞の心になにか、殺伐とした風が吹いた。  『今までもそうだったのかしら? 私は単なるコンパニオンなの?』  そう思ったら、是が非でも帰りたくなった。こういう時の栞は、決まって口が尖っている。そうして寺崎の目を見ずに次の言葉を言う。  「いえ、本当に今日は帰ります。お疲れさまでした」  「あ、おい・・・」 寺崎の呼びかける声を振り切り、栞は自分のバッグをつかみ上げるとオフィスを出た。バス通りを駅へと歩きながら、なぜだか悔し涙が頬を伝った。  それからも何度か小説の清書は続いた。  二度目のは最初の書き直しで、次からはその先の展開だった。次第に栞の方も慣れてきて、清書の最後には簡単な感想を打ち込んでから寺崎に渡すようになった。だが、夕食の誘いは断り続けた。そんなころだった。寺崎が離婚したという噂が栞の耳に入ったのは。  「庶務係の近藤さんが言ってたんだから間違いないわよ」  「へぇ、どうしてなのかしらね? 興味あるわぁ」  女子更衣室ではその話が尾ひれ羽ひれをつけて飛び交っていた。寺崎のDVが原因ではないか?奥さんが万引きしたんではないか?ふたりとも夜が不能だったんじゃないか?などなど、聞くに堪えないものほど更衣室やトイレの会議で花が咲く。  栞の隣の席に座る樋口奈緒がこう言った。  「まきちゃんさぁ、最近よく残業頼まれてるじゃない。なにかこぼしてなかった?」  「え?なに?」  「寺崎さんがよ」  「あぁ、・・・別に何も?」  「ふーん・・・・・あ、もしかしてひょっとして~、まきちゃんが浮気相手でそれが奥さんにバレて、そんで・・・」  「ちょっとやめてよ。そんなわけないじゃん」  「あ、すぐに否定するところがまたアヤシイ~~」  女性というものはとにかくこういった噂話が好きで、そのくせ、真実がどうであれその場で盛り上がれれば気が済んでしまうものなのだ。それも、中心人物が身近であればあるほど盛り上がる。  この時もそうだ。樋口は栞の真実には興味が無く、勝手な想像を膨らませて、次の日には『残業は口実で、牧口と浮気をしていたから離婚になった』という話が出来上がっていた。しかも栞は、奥さんとの話し合いの席という修羅場を啖呵を切って乗り切った “トンでもない女” になっていた。  口をあからさまに尖らせた栞が言った。  「すみません、もう今日で終わりにしてください」  「え? あぁ、ちょうど今日ので完結だから・・・」  寺崎も、栞のその癖・・・機嫌が悪いと口が尖るのを知っていたから、あまり刺激しないように答えた。  「聞いてます? 噂話・・・」  「あぁ、まったく濡れ衣だよな。迷惑な話だ」  「それを言うなら、仕事でもないのに残業してる私なんか・・・させている寺崎さんもですけど、事実を言えないのは悔しいじゃありませんか」  「そうだな。・・・とにかく今日で最後だ。頼むよ」  栞は清書に取り掛かった。これまでに清書した物語の流れから、この小説は寺崎の私小説だと感じていた。主人公のOLは結婚を機に寿退社し、夫の給料を好き勝手に使い、その挙句に浮気をして他の男に走る。夫は妻の携帯電話に連絡を入れ戻ってくるよう懇願したが取り合ってくれず、やっとのことで話し合いに応じたものの逆になじられ、相手の男からも暴力的な扱いを受ける。  ・・・そういえばいつか寺崎は、自宅の階段で転倒し肋骨にひびが入ったとかで休み、病院へ行ってそのまま2日間だけ入院したことがあった・・・。  そして、話し合いのくだりの後から物語の視点が夫に変わっていた。  夫は協議離婚を決意して家庭裁判所に調停を頼んだが、妻はすでに男と行方不明になり、正式な離婚届も出せずに日々を送っている。生死不明のままでは手続きができないらしい。・・・つまり寺崎も、ずいぶんと長い間、やもめ暮らしをしていたのだ。だから、急な残業で夕食を食べて帰っても平気だったのだ・・・。  一度だけ、飲み過ぎた寺崎が愚痴をこぼしたのを、栞は思い出した。『かみさんがさぁ、結婚する前とはえらい変わっちゃってさぁ』と言っていた。だから栞も『そんな奥さん別れちゃえばいいじゃないっすか』と慰めたのだ。ふたりともけっこう酔っていたのでその後どういう話をしたかは憶えていないが、キーを打つうちに徐々にいろいろと思い出し、栞はなんだか寺崎が可哀想で仕方なくなってきた。だから、寺崎の “残業命令” を何も言わずに受けるようになったのである。  例の噂が立ったことは栞にも責任があった。栞が出した、清書は週末ならOKという条件が仇となったのだ。翌日が休日となる週末の残業だから余計に周りの想像を掻き立てるのだ。ハナキンは早く帰りたい、あるいはデートの約束があったりするのが普通だ。それなのに残業を、しかもふたりだけでしているのだから。  しかし栞は、本音を言えばそんなに怒っていなかった。変に目撃者を出さないように、仕事ではないから、と夕食は遠慮していたが、寺崎と噂になるのはイヤではなかった。かつては、奥さんがいなければ自分もアプローチしたいくらいだったから。  そんなことを思い出し、くすりと笑いながらキーを叩く。その様子に、  「なに? なにかおかしな文面があったかな?」と寺崎が声を掛けてくる。  「いえ、なにも・・・」  と返したが、おや?と栞は思った。いつもプリンターが動き出すまで何も言わずに待っているのに、今日は栞の様子の変化に気付いた。物語の書き手として、やはり最後がどう受け止められるか気になるのだろう、と栞はひとり納得したが、寺崎が書いた物語は、よく言えばドキュメンタリー、悪く言ってしまえば、ただ日記を綴っているだけのものでしかない。修羅場という波瀾な展開が、返ってよくある話になってしまっている。  それに、視点が夫に変わるまでの、妻側だけの部分は想像でしかないのだろうから、そういう意味でややリアリティに欠ける雰囲気もある。それが、小説として弱い、というのが正直な感想だった。寺崎が離婚した、ということを考えればこの後の展開は、奥さんとの話し合いが成されて晴れて独り身になった、メデタシメデタシ。で終わるのか? だとしたら本当に日記じゃないか?と、ラストの平凡さを想像して心の中でため息を吐いた。  栞は、小説の内容よりも “今日で最後の清書だ” と寺崎が言ったのを少し寂しく感じていた。こうして寺崎の過去を読み進めて行くうちに、自分自身も同じ場所に生きていたような気がしてきていたのだ。それはもちろん単なる感情移入だし、さらに言えば同情で、ハッキリ言えば錯覚であるのだが、この清書作業が始まる以前よりも、間違いなく寺崎を身近に感じていた。ずっと傍で寺崎を見てきたような、そんな、体験の共有感があった。まるで幼馴染のように、旧友のように、元カノのように。  それが、プリントアウトまで進んでしまえば終わってしまうのだ。来週からは元の、上司と部下という関係に戻ってしまう。栞は、胸が締め付けられるような切なさを感じた。  しかし、清書していた小説は衝撃的な展開に至り、栞はその衝撃にがくがくと震えた。寺崎の妻は、相手の男に殺されたのも同然の死に方をしていたのである。駆け落ちした先で寺崎の妻は男の暴力に恐怖し、主婦売春の組織に身をやつしていた。そして、客から悪い病気を感染(うつ)されて死んだ。男の手によって山中に遺棄された遺体は腐乱死体で発見され、男は逮捕されたのだ。  そういえば寺崎は仕事中に携帯で電話を受け、出掛けたきり戻らず翌日も突発で休んだことがあった。最初にこの小説の清書を頼まれる2週間ほど前だった。あの時がこの部分なのだ、警察からの連絡を受けて遺体の確認に行っていたのだ、と栞は確信した。  『そうして妻は、見るも哀れな姿になって戻ってきた。しかし私は不思議と、悲しくはなかった。むしろ晴れ晴れとした気分であった。不謹慎、いや、冷酷非道なやつだと思われるかもしれないが、こうなってよかったとさえ思った。これでようやく、妻の呪縛から開放される気持ちでいっぱいだったのだ。葬儀は妻の実家が出してくれる。妻の無軌道な行いの、私へのせめてもの罪滅ぼしだと言ってくれた。もちろん葬儀には私も参列させてもらったが、喪主は義父が勤めた。帰り際、役所へ提出する書類を受け取り、妻の実家を後にした。永遠の別れだ。虚しいほどの脱力感の中にあって私は、妻を憎んだり、相手の男を殺したくなるような衝動は一切湧いてこない。やっと終わるのだという安堵する気持ちの方が大きい。ようやく私の人生が、私の手元に戻ってきたのだ、と・・・目を瞑ったままで天を仰いで、そう思った』  栞は絶句していた。押し潰されそうに悲しい愛の失くし方をした反動からなのか、こうまで人は傍観者然とできるものなのだろうか、と疑問に思った。しかし、栞には同じような体験はない。解からないのも当然だ、と思い直した。会社の中ではそんな様子などおくびにも出さず、責任ある立場の人間として立ち、他の誰にも心の中の悲しみや寂しさを感じさせずにいたのだ。そんな寺崎に対して、栞は完敗していた。  それと同時に、寺崎を無性に愛しく感じた。もしも寺崎が泣きじゃくる子供だったら、一も二もなく抱きしめているに違いなかった。それはもはや同情などではなく、ただただ哀れで、人間としての慈しみの心から生じる愛そのものだった。  そうして、“あとがきにかえて” とある一文を読むと、栞は今すぐにでも寺崎に駆け寄りたい気持ちでいっぱいになった。その衝動を必死に抑えながら滲む視界で全文を打ち込むと、プリントアウトのエンターキーを押した。  そして、椅子から立ち上がり、口を尖らせて言った。  「寺崎さん」  「うん・・・」  「私で・・・いいんですか?」  「・・・それは、僕の方の台詞だよ」  ふたりは歩み寄り抱きしめ合った。  プリンターから出てきた用紙の、最後の一文にはこうあった。  『 牧口栞さま  こんな過去を持つ僕ですが、よかったら結婚を前提にお付き合いください 』 (了)
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