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耳を澄ましてみても聞こえるのは自分の息遣いと心臓の音だけで、この場所はしんと静まりかえっていた。ここはどこなんだ。なぜこんなに暗いのだろう。私は恐る恐る伸ばした手に壁が触れたのを感じた。木の感触だった。
この木の壁に沿って、出口を探すことにした。
一歩一歩、ゆっくりと進む。きし、きし、と木の床が音を立てる。その音が妙に大きく聞こえて、不快だ。もし私がここに閉じ込められているとしたら? 誰かに見つかったらどうしたらいい? そんな不安が鎌首をもたげる。
ふと、妻のことを思い出す。
妻。
そう、妻。
妻といっしょに妻の実家へ向かっていた。
不便な場所、とは聞いていたが、なかなかの長旅となった。
自宅の最寄りの駅から東京駅まで20分、
そこから新幹線に乗って3時間、
ローカル線に乗り換えて50分、
さらに乗り換えるが、本数が少なく3時間も待ち、電車に乗ってから20分、
着いた無人駅のすぐ近くに古びたレンタカー屋があり、そこで車を借りて山道を走ること1時間。それでもまだ着かない。
日は暮れ始め、あたりを茜色に染めていた。
暗くなってから山道を走るのは危険だということで、山の中腹にある鄙びた宿で一泊することになった。
「あとどれくらいかかるの?」
「ここから2時間くらいね」
山を一つ越えないといけないから、
と妻は浮かない顔だった。
「ね、すっごく不便なところにあるでしょ」
「そうだね。君がもし実家から出てきてくれなかったら、僕は君を見つけられなかったかもしれないな」
私がそう言うと、妻は少し明るい顔になって、ふふ、と笑った。
「そうね。きっと無理だったわ」
妻と私は一つの布団に入り、抱き合って眠りについた。
翌朝、早々に宿を出ると、私たちは車に乗って妻の実家への最後の道を走った。私たち以外に道を走る車はなく、山道ではあるが舗装されているため、さほど苦になることもなく、二人の好きな音楽をスマホから流しながらの快適なドライブとなった。
「あ、あそこよ」
と、妻が言うのと同時に、私の視界に大きな鳥居が入ってきた。
「大きな鳥居だね」
「あの鳥居をくぐった先が私の実家よ」
私は信心深い方ではないが、こんなに大きくて立派な鳥居をくぐるのに、車に乗っていても大丈夫だろうか、神様に対して失礼にならないだろうか、と少し心配になった。
そんな話をすると、妻が笑った。
「大丈夫、大丈夫。みんな車で通り抜けてるから。バチが当たるんならみんな当たってるわ」
そうは言われても、なんとなく厳かな気持ちになって、私は鳥居の下を通り抜けた。
鳥居を抜けてしばらくすると、小さな集落が見えてきた。家は茅葺で、白川郷のような風情がある。
「ね、ドがつくほどの田舎でしょ?」
「田舎なのは否定しないけど、素敵なところじゃないか」
話している間に、妻の実家が見えてきた。
家の前に妻のご両親がいて、こちらに手を振っていた。私はお義父さんに誘導してもらい、車を止めた。
「いやあ遠いところまでよく来てくれたね」
「疲れたでしょう? ゆっくり休んでね」
車を降りて玄関へ向かっていると、ひゅーっという音が後ろから聞こえてきた。
なんだろう、と思い振り返ると、何かがこちらに向かって飛んでくるではないか。
それは妻に吸い込まれるようにどんどん近づいていく。その様がスローモーションに見えた。
「危ない!!」
私は叫び、土を蹴り、妻のもとへ走った。
妻が振り返り、私と目が合った。
驚いた顔をしていた。
その顔を見たのが、ここへ来る前の最後の記憶だった。
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