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昔からととちゃんのことは苦手だった。
陶器のような白い肌は微かに光を放っているようで、黒々とした艶のない髪は顔を覆っている。髪の隙間からのぞく目は黒目がちで死んだ魚のよう。
話し方はもごもごしていて何を言っているのかわかりづらいし、訛り方が村のものとは違う。
はっきり言って、気味が悪い。
久しぶりに会ったととちゃんは、昔と全く変わっていなかった。
「ととちゃん、久しぶり」
私は固い表情のまま挨拶したが、ととちゃんは返事をしない。目は合っているような、そうでもないような。
✳︎
古来よりこの村に祀られている精霊さまは、村にほどほどの豊かさをもたらし、村人たちはほどほどに幸せな生活を送ってきた、という。
ととちゃんは精霊さまの御使いで、この村の外れにある御社に住んでいる、というか居る。
父や母はととちゃんに会ったことがない。
私は小さい時に遊んでいて、たまたま御社へたどり着き、ととちゃんに会った。
怖くなって走って逃げて、母に変な人に会ったと言ったら、その人は精霊さまの御使いだと教えてくれた。
精霊さまは村のことを守ってくれる。
だけど人間とは直接お会いにならない。
だからととちゃんが、精霊さまと人間の橋渡しをしてくれる。
精霊さまはこの村に深く根付いた信仰で、村の子は小さいときから精霊さまの話をたくさんたくさん聞かされる。
でもどこかお伽話めいていて、私や、周りの子たちも半信半疑といったところだった。
ととちゃんのことも、村の外れに住んでいる変わった人、くらいの印象だ。
大体、精霊さまと人間の橋渡しって、何をするんだろう。
✳︎
会って欲しい人がいる、と両親に伝えたら、
両親がわざわざ村から出てきてくれた。
しかも、何の連絡もなく。
「大変だったでしょ。私たちが村に行くつもりだったのに」
そう言う私を、父と母は静かに、けれども熱心に、そしてどこか怯えた様子で話し始めた。
「それは絶対にダメ。精霊さまは嫉妬深いから、若い夫婦を見たら二人は引き離されてしまう」
出た。また精霊さまだわ。
まるでカルトみたい。私はうんざりしたけれども、父と母のことは愛しているし、二人がそれで安心するならそれはそれでいいと思った。
✳︎
結婚して10年。
そろそろ若いとも言えなくなった私たち夫婦。父と母も、歳をとって、長旅も辛いだろうし、私たちが村へ会いに行きたい、という話をしたら、父も母も理解を示してくれた。
そして、村に着いたとたん、
精霊さまの石が飛んできた。
石は私をかばった夫の頭に直撃した。
何かが割れる嫌な音が今でも耳の中にこびりついている。棒のように倒れた夫を見て、私は助からないと思った。こういう時、可能性は低くても絶対に助かると信じるのが夫婦だと思うのだが、夫の状態は、そんなことも信じられないくらいひどかった。
夫に駆け寄り、声にならない声を喉の奥から振り絞るようにして叫んだ。
その声を聞いて、金縛りのように動けなくなっていた父と母が私たちのところへ走ってきた。
「早く、ととちゃんのところへ」
「精霊さまの御力なら、ととちゃんが治してくれる」
私は二人のそんな戯言のような話を、なぜだかすんなり信じた。車に飛び乗り、御社まで向かった。
「ととちゃん、私の夫を助けて」
ととちゃんは、何も言わない。
✳︎
「ええか。おまの夫見つけたら、この形代と交換せ。精霊さまはわからね」
ととちゃんに治療されていた夫は、精霊さまに導かれてお祭りに行ってしまった。お祭りは、精霊さまの結婚式で、精霊さまのお相手は、精霊さまのいるところへ連れて行かれてしまう。
村のお祭りは、精霊さまが誰も連れて行かないように、形代を使って行われるものだった。その由来は聞いていたけれども、本当のことだとは信じていなかった。
形代は和紙に簡単な人の形と、記号のような文字がかかれたもので、こんなもので精霊さまが騙されてくれるのか甚だ心許ない。
私はお祭りの時に着る黒い装束を来て、ととちゃんの御社の中にいた。中に入るのは初めてだが、暗すぎて何も見えない。ととちゃんの持つ蝋燭の火だけが頼りで、その火が蔵みたいな扉をうっすらと照らしている。
「中に入ったら、走れ。祭りの行列に交じって、夫見つけろ。夫のいたとこに形代貼って二人で戻ってこ。声は出すな。精霊さまに見つかる」
私は頷いたが、ととちゃんに見えたかは定かではない。目の前の扉を押し開くと、外の光がまぶしい。私は目を閉じたまま、走り出した。
外の匂いがする。
足袋の底に砂の感触がする。
風が頬を撫でていく。
声が聞こえる。特徴的な節をつけて、歌っているようだ。
高砂や
この浦舟に帆を上げて
月もろともに出で汐の
波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住の江に着きにけり
私は少しずつ目を開いていき、少し先の方にお祭りの行列が進んでいくのを見つけた。
行列の、神輿の部分に目を凝らした。
そこにいるのはおそらく精霊さまだ。
華美な装束を着て、大きな角隠しのようなものをかぶっている。顔は見えない。肌も見えない。ただきらきらとした着物のみが人らしい形になっているように見える。
その隣にいるのは___
私は思わず声をあげそうになった。
そこにいたのは紛れもなく夫だった。
そう、精霊さまの石で頭を割られた状態のままの___
頭全体にひびのように傷が走っており、赤黒く腫れ上がっている。
視界が霞む。目の前の現実から目を逸らしたくなる。
だけど___
私は夫を助けたかった。
夫が私をかばって助けてくれたように。
止まってしまった足を気力を振り絞って動かし、私はお祭りの行列に交ざった。
行列をなしているのは、私と同じように黒い装束を着た人たちで、フードのようなものを深く被っているので顔は見えない。見ない方がいいように思い、私は神輿だけを見て、徐々に神輿に近づいて行った。
神輿の横にたどり着き、私は夫を呼ぼうとして思わず口を押さえた。声は出すなと、ととちゃんに言われていたのを思い出した。心臓がばくばく音を立てて耳の奥でうるさい。私は深呼吸をし、夫の装束の袖をひっぱった。
夫はすぐに私に気付いてくれた。私はさらに気力を振り絞って、夫に微笑みかけた。上手くできたかはわからない。口元に人差し指を立てて見せると夫は理解し、私に引っ張られるまま神輿を降りた。すかさず私は形代を神輿の上に貼り付け、夫とともに行列を離れた。
夫の手を引き、私は走った。
夫も私について走っている。
振り返ってはいけないと思い、私はひたすらにととちゃんの御社を目指した。
握りしめている夫の手は、間違いなく夫の温かくて柔らかい、優しい手だった。
二人で家に帰るのだ。
その一心で私は走りに走った。
ととちゃんの御社に飛び込むと、すぐに扉は閉ざされた。息も絶え絶え、私は宙に浮かんだように見える蝋燭の火に向かって言った。
「ととちゃん、ありがとう」
ととちゃんは、何も言わない。
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