6人が本棚に入れています
本棚に追加
「帰りたいんです。お願いです、帰してください」
噛み合わない会話の結びは、ただの懇願になっていた。手放しに泣いてしまえたら楽かもしれない。だが、無意識に壱月の制服の袖を握り締める椿の存在が、なけなしのプライドを奮い立たせた。
ぎゅっと唇を噛み締める壱月を、ジイさんがふいに表情を緩めて見つめる。
「そなたらは兄弟で、家に帰れぬのだな?」
「……わかりません。でも、帰り方がわからないんです」
「そうか。家を失ったのか、追い出されたのか、詳しい事情は明日聞くとしよう。今夜はもう遅い。館でゆるりと休むがいい」
今の壱月にとって未確認生命体にも等しいジイさんだけど、悪い人ではないのだろう。混乱と恐怖に竦む身体に、休む場所を提供してもらえるのはありがたい。
ジイさんに先導されて門をくぐる。視界に映るのは、時代劇のセットのような住居。薄暗い建物はすべて木造のようだ。だだっ広い敷地の中に、大小いつくかの木造一階建ての建物が並んでいる。
壱月と椿が案内されたのは、比較的小さな建物の一室だった。生あたたかい床板が、踏み締めるたびにキシキシと音を立てる。夜のしじまを縫って、りぃりぃと鈴虫の音が聞こえた。聞こえるのは自然が奏でる音だけ。テレビの騒音や自動車の走行音といった、人工的な音は聞こえない。――悪い夢のようだ。
「言い忘れていた。儂の名は、牛久五郎佐衛門という。この館の主だ」
振り返ったジイさん――牛久五郎佐衛門が、薄闇の中で微笑む。時代劇の中でしか聞いたことがないような長い名前に、眩暈がした。
最初のコメントを投稿しよう!