珈琲シュガーを齧る人

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珈琲シュガーを齧る人

その人は、いつもひとくち珈琲シュガーを齧ってから、優雅な仕草でとぷんとそれを投入する。 その不思議な癖というか、仕草に気がついたのは半月程前のことだ。 元々、彼女はとても目立つ人だった。格好が派手だとか、顔立ちが派手だとか、煩く喋り続けていて目立つとか、決してそんな事ではない。 ふんわりとしたスカートは流行りものではあったけれど地味な方だし、シャツもカーディガンもありふれたものだった。キャラメル色のコートだけはお洒落で目を引くけれど、街に出てしまえばきっと人ごみにまぎれてすぐに見失ってしまう。彼女はいつも静かに小さく会釈だけして入店し、そして奥の壁際の席に座ってハードカバーの本を開くのだ。 最初に彼女を見つけてから、私の視線は常に彼女にくぎ付けだった。 勿論喫茶店で働いている店員としては、お客様をじろじろと見るわけにはいかない。あくまでも知らん顔を心がけながら、他の客を見渡す様にそっと視線を向ける。 私が昼間のバイト先にこの喫茶店を選んだのは、常連だったからでもないし、店の雰囲気が特別好きだったというわけでもない。ただ単に交通の便を考えた末の事であって、要するに夜のバイト先と家の中間地点にあったというだけだった。 そうでなければ中年男性が集まるような、クラシック喫茶などでは働かない。怒鳴るような客や煩い女子高生は来ないが代わりに、それこそ小説に出てくる偏屈な芸術家のような、クラシックをアンティークのように愛でている拘りをもった御仁たちが集まってくる。幸い、その知識をひけらかすような煩い客に絡まれた事はまだないが、誰しもが口を開きたくてうずうずとしているような雰囲気で満ちていた。 そういう御年配の客の中では、やはり彼女は浮いてしまう。そう言った意味で、若い女性の一人客は私の視線をさらったのだ。 彼女がとても素敵な薄い唇をしていたと言う事を、覗いても。きっと私は目で追ってしまっていただろう。 「珈琲を」 注文を取る時に、一言だけそっと差し出されるその言葉だけが、私の知りうる彼女の唯一の声だ。 彼女は余計な言葉は話さない。けれどだからと言ってお高くとまっているような気配は微塵も感じさせず、むしろ気遣いが出来る優しい女性なのだろうな、という想像を助長させる。それは言葉以外の小さな会釈の仕草であったり、珈琲を届ける時に返されるほんの少しの微笑だったり、そういうものに現れているのだろう。 珈琲を。 その言葉が甘美な響きとなって私の頭の中を反芻している事を、きっと彼女は知らない。 あの声で、私の名前を呼ばれる事を想像するようになってから、漸く私は彼女に懸想しているのかもしれないと思い始めた。美しいだけの人ならば、知り合いに沢山いる。けれど私は、クラシック喫茶で珈琲シュガーを齧る、彼女の事がとても気になる。 同性に性的な興奮を覚えた事はない。私は顔立ちがしっかりしていて、背も高い方だからよく学生時代は後輩の女学生に声をかけられたものだけれど、それにたいしてかわいいなとは思っても、彼女たちとキスをしようとは思わなかった。 特別好きな男性が居たことも無い。男性が苦手ということも無かったが、やはり、キスをしたいと思えるような人には出会わなかった。 けれど、窓際で珈琲シュガーを齧るあの唇に、私は触れたいと思っている。 人差し指の腹で上唇をゆっくり触り、その後に親指の腹であの薄い下唇を撫でるのだ。それを想像するだけで、私の胸はおかしなほど高鳴り、まるで眩暈のような感情が襲う。こんな事を感じる私は変質者かもしれないと一日程悩んだが、結局次の日彼女を見たら、そんなことはどうでも良くなった。 出来れば私はあの珈琲シュガーになりたい。 彼女のその小さな前歯で、唇で、しゃくりと音を立てながら、ゆっくりと齧られ身を崩し、そして細い指で珈琲の中に落とされる。今しがた触れた唇の事を考えながら、私は溶けてなくなりそして彼女の胃の中に流される。 目眩がするような幸福的な、そして変質的な妄想だ。そのくらいの自覚はある。 彼女と出会ってから私はすっかり妄想癖になってしまった。けれども実際に『噛んでください』と言える訳もなく、仕方なく妄想は暴走するだけだ。 そのうち私は彼女に齧られる妄想をしながら自慰をしてしまいそうで、今はただそれだけが怖い。今だって文字を追う彼女の目線を更に追っているだけで、少し、体が熱い。 あの本は何だろう。詩集よりも、現代文学よりも、ミステリ小説ならば素敵だ。夢の中を生きる様な人よりも現実的でわくわくする。そんな事を考えながらぼうっと窓を見るふりをしていたら、不意に彼女の視線がこちらをとらえていることに気がついた。 珍しい。御代わりの珈琲でも必要なのだろうか。いつも珈琲一杯で帰ってしまうものなのだから、私は出来るだけ熱い珈琲を入れて、彼女が猫舌であることを願うという健気な妨害策を取っていたのに。 内心の動揺をそっと笑顔で隠し、私は店員の声で何か御用ですかと唇を動かす。 それに応える彼女の声は、いつもの静かな音だった。 女性にしては少し低いかもしれない。けれど魅力的な、彼女の声。 「ねえ、そんな目で見つめられたらとけちゃうよ」 「……え」 「お手洗いはどこ?」 魅惑的にふんわり笑う彼女の唇に、ああ、私はきっとこの後口づけしてしまうだろう。 ご案内しますね、とにっこり笑ったその陰で、私の理性が砂糖の様に溶けてゆく音を聴いた気がした。
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