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僕らが夢見た理想郷と、その顛末について
氷雨茉宵を殺すのは難しいことじゃなかった。
朝起きて顔を洗い、遊びに連れていって、そしていつか「愛してる」と伝えるだけでいい。
ただそれだけで、僕は彼女を殺してしまえた。
「ねぇ、晴悟くん」
ヒグラシの鳴く九月の始め。
焼けた堤防から夏の水平線を眺めて、氷雨が肩を預けてきた。
くらりと揺れる僕の意識に、柔らかな声が鈴を打つように響く。
「アタシ、やっぱ好きです。晴悟くんのこと」
「付き合って」も、「ずっと一緒にいてください」もない。
ただ頷いて、同じ言葉を反芻するだけでよかった。それだけで僕の仕事は終わる。
その時僕は、氷雨と過ごした三ヶ月を思い出していた。
六月に出会って九月の始まりに別れるまでの月日を並べると、どれもこれもが青写真みたく静謐に輝いている。
ドロップの味がそれぞれ違うように、波打ち際に二つと同じ波痕がないように。けれど白波が一番輝いて見えるのは、いつだって夏の暑い日だった。
これは長い話になるから、先に結論だけ言っておこうと思う。
*
何者でもない者なんて、どこにもいやしなかった。
氷雨茉宵が、そして僕が。世界を変えられなかったのと同じように。
僕らに訪れた結末は、その報いだったのかもしれない。
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