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人が打算なく他人を助けられるのはいつだろう?
答えは簡単だ。僕はそれを、恐怖を感じた時だと考えている。
例えば愛する人が死に瀕した時、あるいはその人のいない未来を思い浮かべてしまった時。人は恐れ、自分のために優しくなる。
だとすれば、打算のない優しさをふりまけるのは、きっと猫か子供くらいだろうと思う。さもなくば氷雨のように、単なるバカか。
僕はそこで考えるのを止めて、氷雨に振り返った。
「なに飲む? こないだの傘も合わせて礼がしたい」
目の前には紙パックの自販機がある。
宿題を見せてもらうとか、日直の代役とかの、高校生活で発生する対価の支払いについて。僕らはほとんどをジュースや学食の食券で解決する。
今回のお礼は、飲めず仕舞いだったイチゴオレのリベンジも兼ねていた。
「あー、アタシお礼はいいっス。受け取れないんで」
僕の分のジュースを取って振り返ると、数歩離れたところで氷雨が濡れていた。
決して狭くない軒下を避ける理由は思い当たらない。
「どうして?」
「モットーなんスよ」
「対価を払うのも受け取るのも、人として間違ってるとは思わないけど」
「それでも、です」
それでも、と彼女は首を振った。僕もそれ以上の詮索はしなかった。
「そうか。何にせよ助かった、有り難う」
「そんなセンパイ、顔上げてくださいよー。アッシ後輩っスよ?」
軽く下げた視界で、氷雨の手が振れていた。
「先輩だってお礼はする」
「そんなんいーっスよ、もう顔上げてください」
言われた通りに顔を上げると、氷雨が校舎の時計を盗み見ていた。何か予定があるのかもしれない。
「引き留めて悪かった。もともと指は大丈夫だから」
ふっと彼女から目を逸らす。
まるでそれが何かの合図だったように、雨が固めていたコンクリートの時間が、不意に動き出す。
「あのー。じゃあアタシ、失礼しますね?」
氷雨が僕の顔を伺う。頷きを返すと、しなやかな肢体が駆け出した。
「あっ、そだ!」
けれどまたすぐに振り返って、朗らかに手を振った。
「痛くなくても、しばらくは動かしちゃダメっスよー!」
彼女はそのまま離れていく。僕はその背を見送ってから教室に戻った。
何かが、心の真ん中に引っ掛かっているような気がした。
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