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怪物のような優しさ
氷雨に助けられてから二日が経った。
日常は至って平凡で退屈。右親指の付け根に痛みがなければ、中庭でのことも忘れてしまいそうになるくらいだ。
「あれだろ、お前助けた便利屋って」
小雨の降りしきる昼休みの中庭。冷たい舞台の上に胡座をかいた若が、向かいの特棟二階を指差していた。
僕は釣られることなくイチゴオレを飲む。
「外見の特徴は教えてないけど」
「有名なんだよ、小夜高じゃ」
「へえ、ウチに有名人が」
つい気になって目線を移す。
特別教室の密集する特棟の、その二階。見覚えのあるワインレッドの髪が、忙しなく揺れていた。
「うわ、マジじゃんあれだよ」
「だろ。ありゃお前と違ってマジのヒーローだぜ」
僕らが他愛もないやり取りをしている間にも、氷雨は親切を振りまいていた。
ハンカチを落とした男子がいれば走って届け、重いノートの束を運ぶ女子がいれば半分以上持ってやる。善人を絵にしたような振る舞いだ。ただどうしてか、親切を受けた生徒の半数が氷雨を避けてようとしていた。
なんとなく氷雨の行いをどこかで見たような気がして、隣の若に話しかける。
「あー言うの、何て言うんだっけか」
「メロスじゃね?」
「いや走ってるけども」
少し遅れて、「雨ニモマケズだったな」と思い出す。
確かあの話の男も、思慮深く質素な人間になりたいと言っていた。どことなく不良じみた彼女のどこかに、名作に憧れるような気持ちがあるのかもしれない。
「にしても」
氷雨のいる廊下を凝視しながら、僕は率直な感想を口にした。
「なんか一部に避けられてない? あれ」
「ありゃ一年坊だ。ご覧の通り、便利屋を避けてる」
「へえ」
よくわかるな。ここからじゃスリッパの色も見えやしないのに。
感心しながら、思い付いたように言ってみる。
「一年が狙わないなら、僕が狙ってみようかな」
若がため息をつく。それから僕を見て言った。
「やめとけ。アイツ、男子を自殺させたらしいぞ」
どこか真面目な声音だった。
ただの冗談のつもりだった僕は、若の真剣な表情に戸惑う。
「ただの噂だろ?」
「タダより怖いもんはねぇだろ?」
「まあ、確かに」
僕がうなずくと、若は「それにな」と言って体を寄せてきた。
「自殺した後輩がいんのはマジだぜ」
「知らないな。だったらもっと校内で騒がれてもいいはずなのに」
「お前が周り見てねぇからだ、マヌケ」
差し出されたスマホには、二ヶ月近く前のニュース記事が表示されていた。
《県立小夜ヶ丘中学三年の男子生徒(十五)が自殺した問題で、県教育委員会と同校の校長が──》
県立小夜ヶ丘高校。それは僕が今まさに退屈な日々を過ごしている、この学校の名前だった。
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