愛で世界は救えない

1/5
前へ
/204ページ
次へ

愛で世界は救えない

 氷雨を殺すことにした。  とは言え直接あの細い首を絞めることも、胸の膨らみを避けて心臓を突き刺すこともない。  愛とか言う目に見えないもので殺すのだから、現実味はあまりない。  ──愛してる  ただその一言だけが、一番最後に現実を連れてくる。  おかしな話。氷雨を殺すと決めても、僕に大した緊張はなかった。 「えぇっとねー!」  国語教師の声で我に返る。  僕の他にも居眠りしていた数人が、抑揚のある声に肩を跳ねさせていた。 「どうして老いた痩せライオンは他の動物に餌を配っているのか。ここがよくテストに出るわけだよ、てか私なら出す」  正直、彼女の声は好きじゃない。  二年目で急にフランクになったヨシザワの声は、寝るにも考え事をするにも大きすぎる。  ただ今日だけは感謝すべきなのだろう。  ぐるぐると低回する氷雨への考察を、その声でかき消してくれたのだから。  始まったばかりの現代文B。  消し損ねたチョークの白い粉末が、水墨画のように黒板消しの航跡をなぞっている。  板書もないから机の下でスマホを触っていると、若からラインが届いた。 《帰り、凱世の墓参り行かね》 《いいよ》  正直気は進まない。  けれど、行かないわけにもいかなかった。  僕が初めて自分の愛結晶を恐れた事件。久慈塚凱世の自殺と、その三ヶ月後に起こった殺人事件について。僕の贖罪は、まだ終わっていないのだから。
/204ページ

最初のコメントを投稿しよう!

47人が本棚に入れています
本棚に追加