序章 苦痛

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序章 苦痛

 時は江戸。舞台は将軍のお膝元。冬の始まりを告げる風が吹く中、鍛冶屋町の外れにある鍛冶屋〝(げん)(しゅう)〟には、店の主と、知り合いがいた。  店の二階には布団に寝転がる男と、投げ出された左手を握る一人の女がいた。  部屋の中は男が寝転がっているせいか、狭く見えた。  寝ているのは幻鷲霊斬(れいざん)。手を握っているのは()()。黄色の小袖を着ている。  負傷した霊斬は、療養のため眠っている。が、その横顔は苦痛に満ちている。  霊斬は(うな)されていた。  安らかな眠りなど得られないのだ。  その理由は、人に知られてはいけない一面を持っているから。  昼間は〝幻鷲〟の主として刀鍛冶をしている。だが、ある名を出すと、表情が変わるのだ。話を持ってくる者達は皆、〝因縁(いんねん)引受人(ひきうけにん)〟という名を口にする。またの名を〝霊斬〟という。それは、霊斬の裏の顔。依頼人の感情を代わりに引き受け、対象者を徹底的に痛めつける。対象者がもし死んでも構わないくらいには。霊斬は依頼を受けるたびに、自らの身体と心に傷を負い、苦しんでいる。今の霊斬の脳裏には、依頼でかつて襲った人物、あるいは死んでしまった人のことが、浮かんでいるのだろう。霊斬はある武家の出身で、元人斬り。その事実を知る人物は片手で数えるくらいしかいない。ずいぶん前に行商人から依頼を受けたことがきっかけで、生家を潰した。実の兄を結果死なせてまでも、彼の憎しみは晴れることなく、かつての父に対し、死んだとしても一生(ゆる)さない、と告げたこともある。  一方千砂は、それを知っていて、霊斬に寄り添っている。  千砂はそば屋で昼間働いており、〝(からす)(あげ)()〟と呼ばれる情報屋で忍びである。元は忍びの里の出身だ。その里も、ある武家によって完膚なきまでに壊され、生存者も一人しかいなかった。  互いに故郷と言えるような場所はない。  故郷に対して、いい思い出などひとつも残っていない。
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