僕と、彼の結婚

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「じゃあ、デスクはそこに……ああでも、やっぱり対面にした方がコミュニケーションをとりやすいかな? 見張ってるみたいで仕事がやりにくくなるよね?」 「先生、どっちでもいいですよ。今はとりあえず運び入れる事を先にしましょう。そうしないと引っ越し終わりませんよ。三十分後には注文してたキャビネットだって届くんですから」 「あぁぁ、ごめんごめん。じゃあデスクはそっちに入れて、あ、その段ボールは僕の資料だから……」  初めての慣れない引越しは、てんやわんやだった。  アシスタントの足立君が率先して手伝ってくれたからいいものの、優柔不断の僕一人だったら丸一日では到底終わりそうにない大仕事だった。 「新しく入るアシさんの机は、そっちの壁際でいいですか?」 「そうだね。慣れるまでは向こうも気を遣うだろうし、壁向きの方が落ち着くよね」  足立君の他に、早速足りない物を買い出しに行ってくれているアシスタントがもう一人。さらに明日からは、編集部のツテで探して貰ったアルバイトが二人やってくる。  事務所を移転し、新しいスタッフを迎え入れるというのに、編集部が与えてくれた時間は僅か一週間分の休載のみだ。できるだけ早く引越しを済ませ、すぐさまネームに取り掛からなければならない。ただでさえ遅筆に加え、ネタ切れ気味の僕は、常に担当編集者に尻を叩かれてばかりだ。時間は一時間でも一分でも多いに越した事はない。  結局――編集者を納得させる作品が出来上がるまで、あれから一年の月日を費やした。達仁が会社から与えられた2DKの部屋のうち、一部屋を作業場として提供され、僕は昼夜も忘れて漫画を描き続けた。  そうして完成した作品を一目見た瞬間に、編集者は「これで行こう!」と太鼓判を捺してくれた。駄目出しを繰り返した時と同じように、編集長や他の同僚に一言の断りを入れる事もなく。 「誰にも文句は言わせませんよ。絶対にこの作品は人気が出ます。さぁ、これから忙しくなりますよ。頑張りましょうね、先生」  編集者は初めて僕を「先生」と呼び、自分から進んで僕の手を握ってくれた。
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