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11. 風向き
「名刺、頂戴よ」
箸を置いた尋深が右手を差し出して来た。言われるままに名刺を渡す。
「へえ。次長さんなんだ。なんか、偉そうで笑っちゃう」
「うるさい。別に偉くもないし、偉そうでもない」
先に貰っていた尋深の名刺にも肩書きがあったが、カタカナのよく分からないものだった。分からない分だけ、そっちの方が偉そうに思えた。
仕事の話をした。業界は違えども、特に中間管理職の悩みや愚痴など似たり酔ったりだ。話が合う部分あり、合わない部分あり。合わない部分ですら共感できるから面白い。十五年の時間を経てそんな会話ができるようになったことに、ほんの少しだけ感慨のようなものがあった。
プライベートの話をするのには、何故か小さな勇気のようなものが必要だった。
結婚したという葉書ももらっていたし、子どもが生まれた後の年賀状には親子三人での写真が載っていた。うちの娘と同学年だということも知っていた。プライベートに関する情報はそれが全てと言ってよかった。それで十分だと思っていた。そんなものを上書きしてしまうことに抵抗があったのかもしれない。
「日坂くんとは連絡取り合ったりしてるの?」
APTに誘ってくれて、尋深との縁を結んでくれた日坂幸人。彼女と結婚でもしていたら恩人と呼んでやってもいいところだが、大学時代の一番の友人であることは間違いない。
「いや、最近は全然だ。いつだったか、年賀状が宛先不明で戻って来て以来、どこにいるのかも分からないんだ」
そうなんだと独り言のように言った彼女は、少し寂しそうな目で奥播磨のグラスを見ていた。
「あの頃はよく下宿で一緒に安い酒を呑んだよ。知ってるか、安い酒ってのはほんとに頭が痛くなるんだ」
「どうせエッチな話ばっかりしてたんでしょ」
「ばっかりではないよ」
「どうだか」
当時、国民的な人気を博していたアイドルグループがあり、二人でよくその話で盛り上がったものだ。彼の部屋には推しメンのグッズが大量にあったし、天井にはそのメンバーの大きなポスターが貼ってあった。
「女の子の話をよくしてたのは確かだけどね」
アイドルだけではない。それぞれ想いを寄せる相手がいた。ただし、その相手に対する行動には雲泥の差があった。
日坂は同じサークルで一つ上の先輩のことが好きだった。こちらがなかなか告白できずにうじうじしている間に、日坂の方は相手が先輩であることにも臆せず果敢に攻めまくった。なかなか相手にしてもらえず、何度告白しても断られ、何度ふられてもめげずにアタックを繰り返していた。
「ま、女子も集まれば同じようなものだけど。そうそう、日坂くんって柴田先輩のことが大好きだったでしょ」
「何で知ってるんだよ」
「知らない人なんかいなかったよ」
「まあ、そうか」
「でも、日坂くんは偉いよ。ふられてもふられても、くじけずに柴田先輩一筋を貫き通してさ。誰かさんとは大違い」
急に飛んできた言葉の棘が心臓にぐさりと刺さった気がして、横目で彼女を見た。
彼女は真っ直ぐ前を向いたまま、グラスに口を付けて満足そうに微笑んだ。
何か言い返すべきか、ほんの少しだけ考えたけどすぐに放棄した。
「ね」
尋深が少し身体を傾けるようにして近づけてきた。
「あの女将さん、どこかで見たような気がするんだけど?」
「だろ? それがあの女将のすごいところなんだよ。来る客みんなに昔の知り合いかのように思わせる、不思議な力を持ってるんだよ」
「まぁ確かに……。でも、わたしが感じたのはそういうことじゃない……ような気もするんだけどなぁ」
「どういう意味?」
「う〜ん、自分でもよく分からない」
尋深はしばらく女将を目で追って観察しているようだったが、やがて考えるのをやめたようだった。
そこからは、学生時代の友人たちの近況について、お互いが知っている情報を交換し合ったりしながら、当たり障りのない話題でそれなりに盛り上がった。
風向きの変化を感じたのは、彼女が三杯目の奥播磨に口をつけた頃だった。
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