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12. あの夜
「で、奥様はお元気?」
唐突に話題が変わった。
まるで顔見知りの近況でも尋ねるかのような口調だったが、尋深と妻に面識はない。
「げ、元気というか、まあ、元気だよ」
「何だ、それ」
尋深をふって妻に乗り換えたわけでもないし、どぎまぎする必要などまるでない。
「いや、急に家族の話になったから」
「ご家族はお元気にしてらっしゃるのかなって、普通に思っただけだけど」
そう言いつつも、それだけで終わらせないのが尋深だ。
「写真」
「え?」
見ると、さっき名刺を出せと言った時と同じように手を差し出している。
「嫁の写真を見せろって言ってんの。あるでしょ、スマホの中に。わたしは年賀状に旦那も娘も写った家族の写真を載っけてるのに、そっちはつまんない干支の図柄のばっかり送って来てさ、不公平じゃない」
不公平ではないと思う。
「まあ、あるけど」
「はい、スマホを出して、写真のフォルダを開く」
言いながら催促するように差し出した手を揺らしている。
まあ拒否するほどの要求でもないので、抵抗はせず、指示されるままに動いた。
新しいところでは家族旅行の写真があったはず。そんなことを思いながら見せる写真を見繕っていたら、スマホごと奪い取られた。
「こらっ」
「まあまあ、いいじゃない」
スマホを睨みつけるような表情は、さほど酔っているふうでもない。彼女は素面でもこんな感じだったと、懐かしさのようなものがアルコールと共に全身に染み渡る。
黙って好きにさせていたら、へぇ~とか言いながら勝手にスクロールして何枚も写真を見始めた。見られて困るものはないとはいえ、さすがにマナー違反だろうと思って奪い返した。
「わたしとは似ても似つかない可愛らしい奥さんじゃない。娘さんもお母さん似で二重でくりっとしたお目々。わたしも一応は二重だけど、こんなにぱっちりもくりっともしてないもんね」
そんなシンプルな憎まれ口が妙に様になる。それも懐かしさの血流を加速させ、文句を言う気力も押し流されてしまう。
「娘さん、確か春っぽい名前だったわよね。うちのは夏だけど」
「さくらだよ」
「そうだ。確か、咲く桜と書いて咲桜。可愛い名前」
「そっちは夏未だったか」
結婚は彼女の方が先だったが、子どもは同じ年にできた。桜の季節にうちの娘が生まれ、その年の夏に差し掛かる頃、尋深のところにも女の子が誕生していた。次の春がくれば仲良く小学生だ。
「最近はテレビの前で見様見真似で歌って踊って、大きくなったらアイドルになるとか言ってるよ」
「わあ、可愛いじゃない。うちの子は駄目ね。大人しいし、人見知りだし。わたしに似て、根が暗いのよね、きっと。アイドルみたいな、ザ女の子って感じの子に育って欲しいんだけどなあ」
「将来のことなんて分からないだろ。性格だってどう変わるかも知れないし」
将来の夢なんてもっと変わっていくだろう。親としては本人がやりたいことをやらせてやりたいとは思う。
「でも、真面目なことを言えば、芸能界なんて得体の知れない世界に娘を送り込むのは、気が進まないのが本音だけどな」
「お父さんとしては、気は進まなくても、だからと言って夢が叶わずに肩を落とす娘の姿も見たくはないって感じ?」
「まあ、そうだな」
まだまだ小さいうちから気を揉んでもしようがない。いや。育ったら育ったで、いくら親が気を揉んでみたところでどうしようもないことなのかもしれない。親なんて子どもが育ってしまえば、あとは無力だ。きっと。
「わたし、今、一人暮らしなのよ」
またしても唐突だった。
意味もよく分からず、急に血管が詰まってしまったかのように答えに窮していると、彼女は残っていた酒を飲み干して、お代わりを注文した。
「大丈夫なのか、そんなに飲んで」
「大丈夫。酔ってるように見える?」
「いや。素面……だと思う」
すると今度は声を立てて笑い始めた。文字表記すれば、キャハハハという文字列が正に当て嵌まる笑い声だった。
やはり酔っているのかと、自信が揺らぐ。
「旦那はね、ひと足先にカナダに行った。知っている? バンクーバー。娘は一時的に実家に預けてあるんだ」
尋深夫婦は職場結婚だそうだ。二人とも同じ会社の国際部門で働いているということだった。うちとは違ってバイリンガル夫婦なのだ。
「来月にはわたしも行くの。家族でお引越し。転職するんだ。向こうの企業に。旦那もわたしも。正確には旦那はもう転職した。わたしも内定してる。今は今の会社の最終引継期間なの。なのに最後の最後に面倒な商談を押し付けられちゃってさ。忙しいのよ、こう見えて。ま、そのおかげでこっちに来れたってのもあるんだけど。他にも出国前に諸々整理しておかなきゃいけないこともあるし、娘は一週間だけ親に頼んだの。短期間なら孫の相手は楽しいらしいから、これも親孝行よ。当分は日本にも帰って来られないと思うし」
簡単には会えなくなるなと思ってから、それは今も同じだと思い直した。
「ご両親は寂しがってるんじゃないのか」
「そうね。それだけが整理のしようのない事柄かな。親のことはやっぱり気になる。でも、あの二人はあの二人で、田舎暮らしとか言って山奥に引っ込んで好き勝手に暮らしているから、わたしに文句を言えた立場でもないのよ。ま、わたしの方は仕事でヘマして日本に逃げ帰って来るかもしれないけどね。でもね、親のことはどうしようもないとしても、それ以外のことはちゃんとしとこうと思ったわけよ、日本を出る前に、仕事も、プライベートも」
「プライベート?」
「そう。なんつーか、男関係? 整理しとこうかなって感じ?」
「げ。そんな男がいたのかよ」
「君だよ、君。あ、な、た」
至近距離で目が合った。
「唯一わたしがふった男。たった一人のわたしの元彼。そして元ストーカー」
思わず先に目を逸らしてしまった。
「あの夜」
どの夜だ?
グラスの中の日本酒の表面を見つめながら頭の中の血流を高速回転させた。
「合宿の夜。どうして、告白してくれなかったの?」
また目を合わせてしまった。
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