13. キスくらい

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13. キスくらい

 長い睫毛と二重瞼に守られた、その中にあの夜の星空が広がっていそうな、無限の奥行きを感じさせる瞳。  あと一センチ、手を動かすだけで触れ合っていたであろう、あの夜。  ストーカーになったのは、ふられた理由に納得がいかなかったからだ。彼女が何を言っているのか分からなかった。ただ、ふられたという事実だけは認識できた。  あの時、もっとごねておけばという後悔は自覚することすら拒絶して、コンクリート詰めにした上に鎖でぐるぐる巻きにして重りを付けて、心の奥底深くに沈めて生きてきた。その後悔の重りが取れて浮かび上がって来た——そんな気がした。  たった二か月。  いやだ。まだ始まったばかりなのに別れるなんて。  そう言って駄々をこねればよかった。  物分かりの良い男を気取って、彼女からの別れの申し出をすんなりと受け入れた愚か者。青二才。大馬鹿野郎。 「わたしはね、あの一年、楽しかったんだよ。合宿の夜から、あなたがわたしにやっと告白してくれたあの日までの一年。わたしは一番楽しかったかもしれない」  また訳の分からないことを言い始めた。その一年、正式に付き合う前の一年の間に一体何があったというのか。 「この人はこっちが背中を押してあげなきゃ、ううん、背中を押したくらいじゃ足りないか。松明(たいまつ)か何かで背中に火でも付けてあげなきゃ、自分から告白なんてできないんだろうなって思った」  自分のことを言われているという実感が欠如していた。ただ、背中に松明? カチカチ山じゃあるまいし、針で突くよりも酷いじゃないか。そんなことを思った後で気がついた。彼女の方はこちらの想いに気づいていたということではないかと。 「合宿所でのあの夜、部屋を抜け出したあなたを見かけたのは偶然だったけど、これはチャンスだと思ったの。あのロケーション、あのシチュエーション。告白するのにはもってこいだって。でも、あなたは時々無駄にロマンチックなことは言うくせに、肝心なことは何も言わないんだもの。……意気地なしに生きる価値なしって言ったの、憶えてる?」  尋深がほんの少しだけ視線をこちらに向けた。  どう答えるべきか分からず、グラスを持って奥播磨を喉に流し込んだら咳込んでしまった。  彼女が小さく笑う。 「もう。大丈夫?」 「大丈夫大丈夫」 「あそこまでわたしが言っても何もできないんだから、ほんと、もうがっかりよ」  その言葉は憶えている。確かに尋深はそう言った。だが、それはそんな文脈で発せられた言葉ではなかったはず……。いや。そうではないのか。 「最低最悪。合宿が終わってしまったら、あれ以上の好機なんて望めないのに。馬っ鹿じゃないのって思ったわ。でもね、でも、あなただって後悔しているんじゃないかなって思ったの。きっと後悔しているに違いないって。何であの夜に告白しなかったんだ、俺の馬鹿馬鹿馬鹿。うかうかしているとあんな可愛い女の子、すぐに他の男に取られちゃうぞ。今度こそ、今度チャンスがあったら絶対に告白してやるんだって、そう決心しているだろうって。きっとそのはずだって思ったの」  突っ込みどころはあったけれど、ここは聞くことに徹することにした。 「だから合宿の後、大学からの帰り道が一緒になるように、何度も何度もそっちに合わせたんだよ。それなのにあなたは何も言ってこない。それでも楽しかったの。あなたと二人で帰る道。あれはわたしにとってはデートだったもの。お互い遠慮なく馬鹿言い合って、セクハラで訴えられたら負けちゃうようなことでも、あなたは平気で言ってくるし。腹が立つこともあったけどさ、腹が立つことなんて、付き合ってるカップルにだっていくらでもあるものでしょう。楽しかった」  尋深は言葉を切ると、日本酒ではなく水の入ったグラスを手に取って、少しだけ口に含んだ。 「それなのにさ、いくら待っても告白してこないもんだから、さすがのわたしも途中からは諦めかけてたけどね。絶対にわたしの方からは告白なんてしないって決めてたし。しないって言うか、できないもの、告白なんて恥ずかしくて。でも、それでも楽しかったからよかったの」  彼女は何を言っているのだろうか。十五年を経て自分は責められているのだろうか。いや。それにしては今の彼女も十分に楽しそうに見える。 「で、あの日よ。こっちがもうすっかり諦めモードに入ってたっていうのに、そんな時になって、あなたは急に告白してきて。遅いわよ。わたしはもう一年も勝手にデートを楽しんでたっつーの。やっぱり馬鹿じゃんって思った。でも、嬉しかった。初心を思い出したっていうか、そうだ、わたしはこれを待っていたんだって思い出した。でもね、その後が駄目だった。あなたはわたしに一切セクハラめいたことを言わなくなっちゃった。最初のうちはわたしも気づかなかった。ただ、何となく何か違うなあって思ってて、そのうちどんどん違和感が大きくなって。で、思ったの。わたし、気を使われてるんだって。こんなの嫌だって。前の関係の方が楽しかったって」  半ば呆然と聞いていると、彼女は急に顔を近づけてきて、耳元で囁くようにして言った。 「せめてキスくらいしていればね」  驚いて彼女を見たが、目を合わせてはくれなかった。  澄ました表情で、今度は日本酒のグラスを口元へ運ぶ。その横顔を黙って見ていた。  微かに開かれた唇がグラスに触れる。傾いたグラスから、透明な液体がその隙間に染み入るように流れ込む。唇がグラスから離れ、軽く上唇を舐めるような仕草と同時に白い喉が動いた。  女性が酒を飲む行為がこんなにエロティックなのだと、初めて知った。 「そんなに見ないで。冗談よ、冗談。ね、本気にして、またうじうじしないでよ。今からストーカーになんかなったら大変だよ。バンクーバーだからね」  彼女は自らの長い話を茶化して笑った。
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