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14. 十五光年
翌朝、目を覚ましたのは自宅リビングのフローリングの上だった。
頭が痛い。
スーツは脱いでいた。きっと正しくは、脱がされていたのだろう。自覚はないけれど。
ネクタイもしていない。ワイシャツは首元のボタンが三つほど外されていた。
頭以外にもあちこちが痛い。せめてソファで寝るんだった。
「あ、パパ、起きた」
声の方に目をやると、妻と娘がダイニングのテーブルで食事をしている。
「大丈夫?」
心なしか妻が口を尖らせているように見えたけれど、気のせいだと思うことにした。
「大丈夫。……悪いけど、水をくれないか」
「随分と楽しいお酒だったのね」
やはり妻の言葉には気付かざるを得ないほどに尖った棘がある。
この棘は弾き返そうとしてはいけない。多少ちくりちくりと痛い思いをしても、甘んじて受け入れるのがよい。それが経験則だ。
「朝ごはんか?」
「何言ってるの。もうお昼ごはんよ。ほんとに大丈夫?」
「ああ、ごめん。大丈夫だよ」
大丈夫——?
尋深からも最後にそう言われたような憶えがあった。
そうだ。タクシーを拾ったのだった。
一人乗り込んだ彼女を見送る時、発車間際に彼女が運転手に何かを言ってから窓を開いた。
——二次会は寝ちゃってたあの頃と成長がないんじゃないの。駄目よ、ここで寝ちゃ。大丈夫?
彼女の方は全然平気な様子だった。学生時代からアルコールの処理能力も含めて、実は身体能力面では彼女の方が上手だった。勝てたのはテニスだけだ。
本当に成長がないと心の中で苦笑した。
いや。そうではない。
そうじゃない。
何かもっと思い出すべきことが——。
アルコールで消去されかかっていた記憶を手繰り寄せる。
時間がもう少し巻き戻った。
タクシーが拾えそうな広い通りまで並んで歩いていた。二人の間に少しよそよそしい距離を取りながら。
——わたしたち、変わったのよ。
酔いのせいだろう。彼女の真意を汲み取ろうともしなかった。頭に浮かんだことがそのまま言葉になった。
——君はあの頃のまんまだよ。
思い出しただけでも赤面してしまう。素面ではとても口に出せない台詞だ。
——もうっ。酔っ払いが。
酔っている分、正直な感想ではあっただろう。けれど、正直であること、それがいつも正しいとは限らない。生きてきた途中でそれを知った。
——学生時代のあなたは、わたしのことを君だなんて呼ばなかったでしょ。
——お互いさまだ。俺だってあなただなんて呼ばれた憶えはない。
——わたしたち、織姫と彦星じゃないのよ。
また突然に話題を変える彼女の得意技かと思った。
——当たり前だ。やつらは毎年会えるのに、俺たちは十五年も会えなかったじゃないか。
——そういうことじゃないわ。今のわたしを見てって言ってるの。あなたと最後に会ってから、十五年の時間が過ぎた。わたしたち、アラフォーだよ。肌の張りもなくなった。小皺も増えた。そろそろ白髪だって。
そんなことは分かっていた。最初からありのままの彼女を見ていた。そのつもりだった。昼間、街で声を掛けられた時も。夏雪のカウンタでは物凄く至近距離で。
けれど、彼女はそんな思いを容赦なく打ち砕いた。
——あなたは今日会った時からずっと、十五光年先を見ているような目だったわよ。ずっとそう。あなたとわたしの距離が十五光年あれば、あなたには十五年前のわたしが見える。それは素敵な、魅力的な話かもしれないけれど、現実はそうじゃない。わたしはあなたのすぐそばにいた。今もそう。だから、もうそんな天体望遠鏡を覗くような目で見ないで。
そんな目で見てなどいない——そう言い切れなかった。
——あなたはわたしにふられた。そう思っているでしょう?
思っているも何も現にふられたのだ。
そう反論するよりも、彼女の言葉の方が早かった。
——わたしの思いは違う。わたしがあなたにふられたの。あの後——、あなたがあっさりとわたしの別れましょうっていう申し出を受け入れた後、わたしはずっと待っていた。あなたがもう一度告白してくれるのを。なのに、あなたは何も言ってくれなかった。だから、わたしがふられたの。それが真実。あなたの記憶は間違っている。
そんな——。
そんなことを言うために来たのか?
それが整理をつけると言った意味なのか?
言うべき言葉を見つけられなかった。
若い頃に気付かずにやり過ごしてきた真実など、大人になってから知るものではない。最早後悔などするレベルですらない。ただただ小っ恥ずかしいだけだ。この短い時間の中で、どれだけ自分の青さを思い知らされたことか。
なのに、彼女の方はまだ隠し球を持っていた。
——今日だって、あなたを見つけるの、大変だったんだから。お昼休みの時間、早めに行ってあなたが出て来るのを待ってたのに、なかなか出て来ないし。どんどん人が増えて見つけにくくなっちゃうし。午後からの仕事の時間も迫って来るし。諦めて帰ろうとしてたのよ。ほんと、ぎりぎりだった。でも、正直に言えば、ちょっと楽しかった。あの頃を思い出した。帰り道、あなたと一緒になるように画策していた、あの頃を。
それを聞く自分がどんな顔をしていたのか、思い出したくも知りたくもない。
時間がなくなっちゃった——。
昼間会った時の彼女の台詞。どこか違和感を感じたあの言葉は、そういう意味だったのか。
——自分が見てたものが信じられなくなっちゃった? 大丈夫。わたしはいなくなる。いい歳してこんな悪戯する女はわたしくらいのもんでしょ。
彼女は照れ臭そうに笑った。
——さっきはああ言ったけど、前言撤回。わたしたち、織姫と彦星になりましょう。誤解しないでよ。年に一回会おうってんじゃないから。地球から織姫までの距離は二十五光年。地球から彦星までは十七光年。そして、織姫と彦星の距離は?
——十五光年だ。
それは全部、合宿の夜に教えた数字だ。
——あの二人はお互いに十五年前の相手を見ている。わたしたちにぴったりじゃない。これまで通り、あなたはあなたの日常を生きて、わたしはわたしの現実を生きる。もう会うこともないだろうわたしたちは、お互いに十五年前の相手を見ながら生きましょう。ごめんなさい。ずっとあなたのことを想って生きるわけじゃないけど。そうね、年に一回も無理かも。でも、いいじゃない。お互い多分これですっきりしたはず。あなたがストーカーをやめた時みたいに。
そこで彼女がタクシーに向かって手を上げた。
——会わない方がよかったとか思ってる? 合宿の夜の砂浜で話したこと、憶えてるかな。離れていた方が若いままの自分を見てもらえるって話。あれは宇宙レベルの距離じゃなくても、地球にいる人間同士でもそうなんだなって、最近思うの。昔会ったきりになっている人は、いつまで経ってもその時のまんま歳を取らないもの。あなたの中のわたしもきっと昨日までは学生時代のわたしのままだったでしょ。お互いさまだけどね。わたしは会えてよかった。そう思ってる。
タクシーに乗り込む間際、彼女は振り向いて、昨夜一番の笑顔を見せた。
——そう考えるとわたしって、まるでわざわざ玉手箱を届けに来た乙姫様みたいじゃない?
織姫の次は乙姫かよと、その台詞に突っ込めなかったことが最大の心残りかもしれない。
彼女を乗せたタクシーが角を曲がるのを見届けながら、そんなことが心を過った。
特別なことではないだろう。誰だって抱えて生きているはず。若い頃なら尚更だ。青臭い記憶。ほろ苦い体験談。どんなに親しい人にだって言えないようなこともある。気付けなかったことや勘違いしたままになっていることだって、どれだけあることやら。
それでも、どこかに刺さっていた棘が——大きな棘が、一本抜けた。酷い二日酔いのはずなのに、そんな清々しさがあった。
多くのものは遠く離れてしまえば見ることすら出来はしない。忘れ去られ、無かったも同然となる。何光年離れても見えるのは、それだけの輝きを放っているものだけだ。
「はい、パパ」
咲桜が水を注いだコップを持って来てくれた。
「ありがと」
飲みながら思う。
尋深は間違っている。織姫と彦星はずっと同じ距離で見つめ合っているとしても、自分たちはそうはいかない。もうこの先は十五光年では済まないのだ。五年経てば二十光年。十年経てば二十五光年。二人の距離はどんどん広がるばかりだ。
だが——。
現実はどこまでも思い通りにはならない。結果的に二人の距離がそこまで広がることはなかった。
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