3. 出会い

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3. 出会い

 尋深との出会いは、大学のテニスサークルだった。  そのサークルへの入会を決めた理由が彼女の存在だったことは、誰にも打ち明けたことがない。もちろん彼女本人にも。  小学生の頃から父親の趣味につき合わされる形で、近所のテニススクールに通っていた。高校のテニス部の部室が不良たちの溜まり場になったのに嫌気して、二年の途中で退部してからは帰宅部だったので、少しブランクがあった。  そういえば、初めて出来た彼女は高校のテニス部がきっかけだったけれど、それはまた別の話だ。  大学では体育会系のテニス部ではなく、サークルで気楽にテニスを楽しもうと思っていた。ところが大学に入ってみて、テニスサークルの数の多さに驚いた。はじめはどこでもいいから適当に入会しようと考えたのだが、調べてみるとそうもいかない。テニスそっちのけで合コンやパーティに明け暮れている飲みサーと呼ばれる団体も多かったし、更に過激で下品なサークルはヤリサーと陰口を叩かれていた。  高校三年の夏、受験勉強を理由に当時の彼女にふられた身としては、女子との楽しい出会いを夢見ないわけではなかったけれど、それでも最低限の品性とプライドは捨てたくはない。外から眺めているだけでは実態など分かりようもないので、いくつか体験入会を繰り返しているうちに時間は流れ、大学最初のゴールデンウイークが近づいていた。  きっかけをくれたのは、何かの講義でたまたま隣の席に座っていた日坂という男だ。彼の方は入学直後にテニスサークルに入っており、同じサークルに入れと熱心な勧誘を受けた。 ——早く決めないと、余計に入りにくくなっちまうぞ。  この時点では顔見知り程度の相手ではあったものの、話して見れば気さくな男だったし、悪い人間ではなさそうだった。 ——新入生が少なくて寂しいんだよ。  それが熱心な勧誘の理由だった。 ——少ないわりに女子のレベルはそこそこ高いぞ。  それがセールスポイントらしかったが、この時点では眉唾だ。そこそこという言い方がもう怪しい。 ——ちょうど今日はキャンパスのコートが使える日なんだよ。とりあえず見に来いよ。  普段はキャンパスから少し離れた市営のテニスコートを利用することが多く、キャンパス内のコート利用は多くても月に数回ということだった。  APTテニスサークルという胡散臭い名称が少し気にはなったものの、まだ体験入会もしたことがないサークルだったので、断る理由はなかった。  その日、二面使っていたコートにいたのは十二三名ほどだったと思う。名簿上は五十人ほどのメンバーがいるらしかったが、常時参加しているのは十数名ということだった。  紹介された先輩に挨拶をして、日坂と並んでコート脇のベンチに腰を下ろした。  奥のコートを使っている女子三人は初心者のようで、先輩らしき男子学生が球出しをしながら指導をしていた。それを眺めるともなく眺めながら、日坂に疑問をぶつけた。 ——APTってどういう意味だ? 男子プロテニス協会か?  そんなはずはないことは分かっている。 ——それはATPだろ。APTの由来は誰に聞いてもよく分からないんだ。今ではアンポンタンの略だろうってことになってるらしい。  馬鹿馬鹿しいだろと笑いながら、日坂は自分のバッグからウィルソンのラケットを二本取り出して、一本を差し出してきた。 ——今日はこれを貸してやるよ。向こうのコートが空いたら俺とラリーしようぜ。  手前のコートには四人が入ってクロスラリーが行われていた。どの人も小気味良い打球音を響かせている。それに比べて、初心者が練習している奥のコートからは、ほとんど打球音が聞えてこない。  ただ一人だけ、音はそれなりながらも、常にホームラン性の当たりをかっ飛ばしている女子がいた。  いつの間にか、その女子を目で追っている自分がいた。  赤いジャージに白いTシャツ。三人の中では背が高く、ラケットを振るたびに束ねた明るい髪が大きく揺れていた。  ちょうど日坂もその女子を見ていたようだ。 ——あの子はちょっと力み過ぎなんだよな。こないだももう少し力を抜いた方がいいよって言ったんだけど。 ——そうだな。でも……。  すごく楽しそうだという感想を飲み込んだ。  その女子こそが彼女、中和泉尋深だ。    その後もコートが空くのを待ちながら日坂と話していると、視界の外から飛んで来たボールが近くで跳ねて肩に当たった。 ——痛てっ!  思わず声が出てしまったけれど、実はさほど痛くもなかった。  立ち上がって、転がったボールを拾い上げる。  慌てた様子で駆け寄って来たのは尋深だった。 ——ごめんなさい。大丈夫でしたか。 ——大丈夫大丈夫。  これが彼女と交わした初めての会話だ。  彼女は表情筋全てを使って申し訳なさを表現しているようだったが、透明感の強い茶色の瞳ばかりがやけに印象に残った。  その瞳に吸い込まれそうになって、つい見惚れていたところへ、日坂が近づいて来て肩を組んだ。 ——こいつ、各務。今日入った新メンバー。俺たちと同じ一年だから。  まだ入会すると決めたわけではなかったのに、そう紹介された。 ——そうなんだ。中和泉です。  同級生と知って、彼女の表情が和らぐのが分かった。謝った時の申し訳なさそうな顔が、ほっとしたような笑顔に変わった。  それは遅ればせながら冬から春へ季節が進んだようでもあって、もし、この世界に恋に落ちる音なんてものがあったとすれば、すぐ(そば)にいた日坂にも聞こえてしまっただろうと思う瞬間でもあった。  この時ばかりは、拙速に他のサークルへの入会を決めずにいた自分の優柔不断さを褒めてやりたい気持ちになった。 「何だか楽しそうですね」  不意に声を掛けられ、女将と目が合った。  そんな表情をしていたのかと、恥ずかしくなった。 「西京焼きです。お待たせしました」 「ありがとうございます」  女将はビールが空になっていることを確認して、瓶を下げてくれた。 「今日はビールの進みが早いんじゃありません?」 「そんなことはないと思うけど……」 「名刺一枚で、そんなにお酒が進むなら、わたしも名刺を作って配ってみようかしら」 「いや、だから、それは関係ないですって」 「そうかしら?」  これ以上会話を続けても、女将の術中にはまってしまうだけだ。 「すみません、日本酒をお願いします」 「あ、誤魔化した」 「そうじゃないって……」 「冗談ですよ。ちょうど各務さんの好きそうなのが入ってますよ」 「じゃあそれを」  銘柄を確認するまでもない。日本酒に関する自分の生半可な知識よりも、客の好みをしっかり把握してくれている女将の方が格段に信頼がおけるのだから。  女将が尚も何か言いたげな雰囲気を醸し出しつつ奥へと引っ込んだ時、カウンタに置いてあったスマホが震えて着信を知らせた。LINEの着信だ。  スマホを手に取り、発信者の名前を見て固まった。  尋深からだ。  自分に対して平静を装いつつ、トーク画面を開いた。
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