5. アンブレラ・ハラスメント

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5. アンブレラ・ハラスメント

——もう降らないだろうと思ったんだよ。  それは降らないで欲しいという希望的観測でもあった。せっかく入ったサークルも雨天中止ばかりで、尋深の顔を見られない日が何日も続いていたからだ。 ——見通しが甘いなぁ。甘い甘い。そんなことじゃ虫歯だらけになっちゃうよ。 ——どういう意味だよ?  笑わせようとしたのかもしれないが、正直詰まらなさ過ぎて笑えなかった。けれど、ぶっきらぼうな反応を返してしまったのはそのせいではない。会いたい会いたいと思っていた相手が不意に現れたことによる、緊張のせいだった。  彼女はこちらの反応など意に介する様子もなく、一人で声を立てて笑っていた。  その笑い声に合わせて揺れる傘の色が赤と白だったのは憶えているけれど、模様までは思い出せない。はっきりしているのは、二人が雨を避けるには小さい傘だったということだ。  傘の端から零れ落ちる雨だれが彼女の肩を濡らしていたので、押し戻した。 ——俺は濡れて帰るから大丈夫。  せっかく想いを寄せる女の子から話し掛けられたのに、素っ気ない態度を取ってしまうのは何故だろう。そうでない女の子が相手ならもっと上手く振る舞えるのに。  コートを後にして歩き始めても、彼女は傘を差し出したまま着いて来た。 ——遠慮しなくていいよぉ。  おどけたふうにそんなことを言う。 ——遠慮なんかしてない。その傘に二人だと狭いだろ。  その言葉が意図せず彼女の地雷を踏んだ。 ——あ。わたしがでかいと思って。 ——そんなことは言っていないだろ。 ——思ってるでしょ。セクハラだから。  尋深からは卒業までの間に何度となくハラスメント呼ばわりされたが、これがその最初だったように思う。  高校まで水泳部だったという彼女は、言われてみれば女子にしてはやや肩幅が広かった。けれどそれは「言われてみれば」「女子にしてはやや」という程度でしかなかったし、むしろ女子としては身長もそこそこあって無駄な肉もなくスタイルが良い。それが男女を問わず周囲の評判だった。  それでも本人にとってはコンプレックスだったらしいから、女心は繊細かつ複雑で難解だ。そんなものに巻き込まれたら対処ができない。  そもそもこちらは、ただ傘の小ささを指摘しただけだ。こういう場合は感情的にならず、理詰めで反論するのが得策だ。相手の土俵に乗ってはいけない。 ——思ってないよ。それにもし思ってたとしても、思うだけじゃセクハラにはならないぞ。妄想するだけでセクハラなら、世界はセクハラで溢れ返ってるはずじゃないか。殺したい、殺してやるっていくら思ったって、思うだけなら殺人罪にも殺人未遂にもならないんだぞ。  さすがに分が悪いと察したのであろう彼女は、すかさず方向転換してみせた。それもあらぬ方向に。 ——女子が誘った相合傘を断るのはセクハラだよ。  言った本人も本気ではない。目が笑っていた。  それに気づくと、こちらも楽しくなった。 ——望まない相合傘を強要される方がハラスメントの被害者かもしれないじゃないか。 ——あ。酷い。確実に傷ついた。これは絶対にセクハラかパワハラだ。……傘ハラかも。  泣いてもいないくせに、ぐすんとか言って涙を拭うふりをする。 ——相合傘の押し売りの方が傘ハラだろ。 ——あ、また、酷い。でも大丈夫。かよわい女の子のやることはハラスメントの対象外なのだよ。 ——かよわい? ——あー、やっぱりセクハラだ。  他愛もない会話を続けながら、そのまま二人一緒に大学の正門を出た。周りから見ればカップルがじゃれ合っているようにしか見えなかっただろう。  長雨のせいで何日も置きっ放しになっていた自転車は、この日も置いて帰ることになった。 ——ねえ。どうせ暇なんでしょ。どっか行こうよ。  彼女がそんなことを言い出したので、やっと落ち着きを取り戻していた心臓がまた活発に活動をし始めた。もちろん表向きは平静を装う。 ——どっかって、どこだよ?  だが、その問いかけが終わらないうちに、彼女は駆け出していた。この時点で傘の事などどうでもよくなっているところが彼女らしい。  見ると、大学前の電停にちょうど路面電車が滑り込んでくるところだった。電停に渡る横断歩道の信号が点滅を始める。 ——早くっ、あれに乗ろう。  駆けながらそう言った彼女を、慌てて追いかけた。
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