6. おもいで酒

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6. おもいで酒

 その後、映画を観ようとか言いつつ映画館の前まで行ったものの、観たい映画は時間が合わず、結局商店街をうろうろして喫茶店でお茶を飲み、お好み焼きを食べて帰った。  あれはデートではない。それでも、二人の距離が縮まったことは間違いなかった。しかも誘って来たのは彼女の方だ。女の子が、たとえどんなに暇だったからとは言え、気のない男を誘ったりするものだろうか。もしかして、彼女も自分のことを——。いや、それはいかにも早計だ。でも——。  そんな妄想ばかりが(はかど)りながら眠りについた夜、その程度のことで自分に気があるなんて思わないでよ——サークルの女子数名からそう嘲笑(あざわら)われる夢を見た。良い事が合った次の朝だというのに、とても寝覚めが悪かったことを良く憶えている。  口に運んだグラスが空になっていることに気づいた。いつの間に飲んでしまったのか、自覚がなかった。  女将に奥播磨のお代わりを頼む。 「各務さん、やっぱり今夜はお酒の進みが早いですよ。おもいで酒かしら?」  女将の意地の悪い言葉につい反応してしまう。 「古いな。都はるみでしたっけ?」  わざと間違えてみた。 「古くて悪かったですね。小林幸子ですよ。それに古い歌ってことは、良い歌だってことですよ」  空のグラスに酒が注ぎ直された後、女将は水の入ったグラスと一緒に小鉢を出してくれた。見ればホタルイカだ。  注文していない。そんな台詞を制するかのように、女将がウインクをした。何やら目からビームでも出たかのように、また心のどこかが撃ち抜かれた気がした。どうやら小鉢もウインクもサービスらしい。 「いただきます」  小さな声で言って、早速箸をつけた。  ボイルしたものを酢味噌で食すことが多いが、これはバター醤油焼きだった。 「美味い」  自然と感想が口から漏れた。 「よかった。さっきの名刺の人って、各務さんの昔の彼女ですか?」  急襲に近かった。鋭い洞察力の持ち主なのか、単なる当てずっぽうか。女将は恐らくそんな自覚もないままに、古傷のど真ん中に切り込んで来た。 「彼女かどうか、怪しい彼女ですね」  誤魔化したわけではない。自分でも驚くほど素直に答えていた。 「あら。断然興味が湧いちゃうわ。早く来ないかしら、その彼女」  余計なことを言ったのかもしれない。好奇心に目を輝かせたまま奥に引っ込んだ女将を見て、たちまち後悔が襲ってきた。  LINEを確認してみると、いつの間にか既読にはなっていた。が、返信はない。その画面を見ながら、新しい奥播磨を口に含んだ。  ラベンダーの香りがタイムスリップを引き起こす小説があったけれど、奥播磨にも似たような作用があるのかもしれない。  芳醇な旨味が、また過去に(いざな)う——  二人で出かけた夜の不吉な夢のせいもあってか、その後の二人の関係に大きな変化はなかった。彼女との思い出として次に思い浮かぶのは、合宿でのことだ。  夏休みになると、APTの合宿があった。  毎年違う土地へ行っての合宿で、一年の時の行き先は小さな島だった。海岸近くに建つ、古いけど広大な宿泊施設。ホテルとも旅館とも違う。テニスコートの他にもグランドや体育館、弓道場などもあって、主に学生の部活やサークルの合宿向けの施設だ。今になって思えば、あまりにも経営効率が悪そうなので、どこか自治体などが持つ公共施設だったのかもしれない。  すぐ裏に小さな砂浜があって、合宿の朝はそこでの体操で始まった。  朝食前、海に向かって立つと、朝陽を反射する波が、まだ半分寝ている目には眩しかった。けれど、言うまでもなく、もっと眩しかったのは尋深の方だ。  寝巻代わりであろうジャージとTシャツ姿の、やっぱりどこか眠そうな彼女の姿を、体操しながらも目で追っていると、隣にいた日坂から肘でつつかれた。 ——朝から晩まで中和泉さんばかり見てるじゃないか。  自分がどうやって誤魔化したのか。恐らくは誤魔化しきれてなどいなかったのだろう。都合の悪いことは忘れてしまったようだ。  テニスサークルの合宿とはいえ、テニスの練習ばかりしているわけではない。むしろ島内の観光やら海水浴やら、テニス以外の時間の方が長いくらいだった。  泳ぎは今でも得意ではない。スイミング教室に通っている、まだ就学前のうちの娘の方が既に上手いかもしれない。カナヅチではないと思っているのだけれど、少し泳ぐとすぐにへとへとになって、やがて足から沈んでいく。  対して、水泳部出身の尋深は、明らかにコート上よりも良い動きをしていた。みんなのリクエストに応えて個人メドレーを披露するほどに。 ——各務くん、泳ぎ方くらい、いつでも教えてあげるよ。君がどうしてもって頭を下げるならね。 ——るせえ。テニスサークルなんだから、勝負はテニスコートだろ。  軽口を叩く水着姿の彼女を直視出来ず、視線ばかりを泳がせていた。あの頃の自分が可愛くてしようがない。きっと尋深の頭の中でも、泳ぎは苦手なくせに目はすぐに泳ぐのねくらいに思われていただろう。  それでも海は嫌いではない。  小学生の頃、毎年夏休みに遊びに行っていた曽祖父の家が、やはり海の傍にあった。夜、布団の中では波の音がよく聞こえた。与えられていた部屋が海に面した部屋だったから尚更だ。別の部屋で酒を飲みながら談笑している大人たちの声も、邪魔にはならなかった。  窓を開くとすぐ堤防で、その向こうにはテトラポッドが積み重ねられていた。波はそこに打ち付けては砕かれ、引いていく。その音を聞いているのが好きだった。昼間にはほどんど聞えてこない。なのに、明かりを消して布団に入ると、どういうわけかボリュームを上げたかのように鮮明に響くようになる。  耳から入り込んだ波の音に、やがて頭の中が満たされ、いつの間にか眠りに落ちるのだ。  
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