7. 合宿

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7. 合宿

 合宿所の部屋に波の音はほどんど届かなかった。建物の構造のせいか。風向きのせいか。あるいは単純に距離の問題なのか。時折微かに聞こえる——そんな程度だった。海はすぐそこにあるというのに、何ともったいないことか。  合宿終盤の夜だった。真夜中に一人で部屋を抜け出した。  日中のテニスや海水浴で身体は疲れ切っているはずなのに、何故か目が冴えて眠れなかった。社会人の今なら翌日のことを考えて、何としても寝なければと焦って余計に眠れなくなるパターンだけれど、当時はさすがに若かった。多少の睡眠不足くらいは吸収できるエネルギーがあった。  宿泊棟を出て、弓道場の脇を通って裏庭を抜けた。アスファルトの細い遊歩道を挟んで堤防があり、それを越えたところに朝の体操をする砂浜があった。  遠くの外灯。夜空が負った切り傷のような細い月。満天の星。それらの光を反射する波。そんなものたちのおかげで、砂浜は思ったよりも明るかった。  こんな環境でテニスが出来るかよ——そう言いたくなるほどに、あの夏、日中の暑さは酷だった。夜の海岸は熱帯夜特有の蒸し暑さのせいで快適とまでは言えないものの、それでも随分と過ごしやすくはあった。  どう気をつけてもサンダルに入り込んで来る砂が不快で、いっそ裸足になった。  サンダルに入り込んだ砂は不快なのに、素足に直接触れる砂が気持ちいいのは何故だろう——そんなことを思いながら海へと近づいた。  濡れる恐れのない程度に波打ち際と距離を置きつつ、乾いた砂の上に体育座りをした。  地球の端に目をやると、黒い影にしか見えない島々が水平線を分断していた。黒い海と夜の空を分けているのは、水平線の下だけをマスキングして絵の具を微細に散らしたかのような星々の輝きだ。  ふと女子たちの部屋で眠っているであろう尋深のことを思う。  この何か月かで、彼女のテニスは格段に上達していた。もちろんまだまだ追いつかれる心配をするほどではなかったけれど、彼女相手にラリーが続くと嬉しかった。なのに、続けようとすればするほど余計な力が入ってしまい、あるいは力を抜き過ぎたりして、自分の方がミスをしてしまう。 ——何やってんのぉ、せんぱーい、お願いしますよぉ。  よく尋深からからそんな風に揶揄(からか)われたものだ。先輩呼ばわりするあたり、完全に馬鹿にしている。 ——だって、テニスじゃ大先輩なんでしょぉ。  思い出して苦笑しながら、身体を横たえて大の字になった。砂だらけになることなんて全然気にならなかった。  波音が心に染み入って、まるで心の揺らぎと波が打ち消し合うかのように、穏やかな気持ちにしてくれる。目を閉じてしまえば包み込まれるようだった。  寄せる波。  引く波。  その繰り返しを聞いているだけで、身体が浮いているような錯覚に陥った。  寄せる。  そして、引く。  波は身体の下にまで浸み入って、身体を揺らす。  そして、少しずつ海へと運ぶ。  そのまま海へ引きずり込まれてしまうかと思えば、また少し戻される。  そんなことを繰り返しながら、徐々に徐々に海へと近づく。  足先から順に浮き上がっていく感覚。  腰が浮き、背中から肩、そしてとうとう頭まで。  全身が浮いた。  いや——。  そこはもう海面ではなくなっていた。  上下左右、全てが海だ。  揺れる波をすり抜けて降り注ぐ月や星々の淡い光。  苦しくはない。  むしろ心地良い。  やがて身体の表面から海水が浸透してきて、いよいよ自分と海との境界はあやふやになる。   波をすり抜けた光は身体をもすり抜けて、そのまま海底の闇に溶けていく。  不意に光が途絶えて、真っ暗になった。  びっくりして目を開いて、さらに驚いた。  光を遮ったのは、すぐ目の前にある尋深の顔だったからだ。 ——こんな時間にこんな所で何してんのよ。  こちらは驚きが大き過ぎて声も出ないのに、彼女の方はあっけらかんとしたものだ。  動揺を隠し、ここでも懸命に平静を装った。  首を持ち上げて足元を見ると、波打ち際はずっと向こうにあった。  そうだ。こんなところまで波は寄せては来ない。  束の間、夢を見ていたようだった。  そっちこそ何をしに来たんだと言いたかった。  眠れずに散歩に出て来たのか。  波の音を聞きに来たのか。  星空を眺めに来たのか。  それとも——。  尋深はちょっとだけ砂を気にする素振りを見せたけれど、それでも隣に腰を下ろして膝を抱え、体育座りをした。  パジャマ代わりであろうTシャツにショートパンツという軽装。  ついついその脚に目が行ってしまうが、彼女が口を開いたので慌てて目を逸らした。 ——何となく眠れなくてね、そしたら怪しい物音がしたもんだから、そおっと部屋を抜け出してみたの。弓道場に黒い人影が見えたから、こっそり後をつけて来たんだ。  言いながら笑ってた。その笑いで嘘だと分かった。嘘だとは分かったけれど、乗っかってみた。 ——危ないじゃないか。女の子一人で。 ——あれ。女の子扱いしてくれるんだ。 ——そりゃまあ、一応? ——一応って何よ。セクハラだから。でも、そうね。頭から布袋とか被せられて、そのまま船に乗せられて、どこか知らない国に連れ去られちゃったりして。 ——怖い怖い。ほんとに怖い。妄想が怖すぎるよ。  今度は二人で声を合わせるようにして笑った。 ——何となく眠れなかったのは本当。ちょっと歩こうかなって思って外を見たの。黒い人影じゃなくて、ちゃんと誰だか分かったわ。きっと合宿の練習が辛くて逃げ出すんだなと思ったから、引き止めに来てあげたの。  彼女はよく笑う。  この夜の彼女はいつにも増してよく笑った。 ——逃げ出すほど厳しい練習していないじゃないか。もっとテニスをさせろってくらいだよ。  テニスの練習よりも海水浴や観光の方が長いような日程だったのだ。 ——で、何してんのよ?  波の音が好きなんだと、格好をつけてみた。 ——うわ。ロマンチックなこと言っちゃうんだ。わたしのこと、口説こうとしないでよ。  予想通り茶化しながらも、彼女も隣に横たわった。そして、今更ながらに星の多さに驚いてみせた。 ——すごい。星がたっくさん。プラネタリウムみたいだ。  本当に気がついていなかったのだろうか。まるで幼い少女のようにおどけて言った後、声のトーンを落として続けた。 ——宇宙を見てる……ていうか、宇宙にいる。そんな感じ。 ——実際、宇宙にいるよ。 ——そうだけど……。 ——でも、僕らは確かに宇宙の中にいるのに、今の宇宙を見るには宇宙は遠過ぎる。いくら目を凝らしても、どんなに高性能な望遠鏡を覗いたとしても、宇宙は過去の姿しか見せてくれない。例えば織姫だって、僕らが見ているのは二十五年前の姿だ。実際の彼女は二十五歳も老けている。  織姫と言われること座のベガは、地球から二十五光年離れているからだ。 ——何でそんなこと知ってるのよ?  中学時代、頼まれて天文部に在籍していたことがあるのだと、この時初めて打ち明けた。 ——人数が足りなくて廃部の危機だったんだ。積極的に活動に参加してたわけじゃないけど、まあ多少は知識が増えた面もある。 ——どうせ女の子の気を引くために利用しようとか思ったんでしょ。 ——そ、そんなわけないだろ。  実は部長が美人だったのだが、そんなことは絶対に言えなくなった。 ——冗談冗談。むきにならないで。わたしは女の子扱いされるの大歓迎だから、いくらでも気を引いてくれていいわよ。 ——さっきは口説くなって言ったくせに。 ——まあまあ。男の子は細かいことにこだわっちゃ駄目。じゃあ彦星君は地球からどれだけ離れてるの? ——地球からだと十七光年。 ——わたしたちが見ているのは十七年前の彼ってわけだ。すごい。遠くに行けば行くほど若く見える。てことは、好きな人とは距離を置いた方が若い自分を見てもらえる——毎年一光年ずつ離れていけば、ずっと同じ姿を見てもらえるってことだよね。好きな人とは近くにいたい。でもずっと綺麗な自分を見ていて欲しいなら離れた方がいい……。こりゃなかなか意味深かも。 ——実際には若く見られるほど離れられないんだから、成り立たないよ。 ——でも、日進月歩だよ。わたしたちがおじいちゃんおばあちゃんになった頃には実現してるかも。まあ、もうおばあちゃんになってたんじゃ意味ないけどさ。 ——そりゃそうだ。  ひとしきり馬鹿話をして笑ったところで、会話が途切れた。
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