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8. 後悔が瞬く夜
二人、砂浜に並んで寝転がったまま、星空と波音に身を委ねていた。
でも実際には波音など耳には届かず、自分の心音ばかりが頭の中に響いていた。まるで身体中の血管が心臓になって鼓動を打っている——そんな感じだった。
堪え切れなくなって彼女の横顔を盗み見ると、真っ直ぐ上を向いたまま目を閉じていた。それを知って安心して、ちょっと大胆に観察してみた。
長い睫毛。
額から鼻へのなだらかなライン。
薄めの上唇。それよりも少しだけぷっくりとした下唇。
顎から首への滑らかそうなカーブ。
ゆっくりと上下する、Tシャツを控え目に押し上げた胸の膨らみ。
その輪郭をそっと指先でなぞってみたい。あるいはスケッチブックに書き写して残しておきたい。そんなことを思わせるほどに、どこを取っても完璧な曲線に思えた。
ほんの少し手を動かせば、小指同士が触れ合う。そんな距離に二人はいた。
——いいわ。
瞳は閉じられたまま、彼女の唇だけが動いた。
——えっ、何がっ⁈
不意を突かれて、既に限界まで鼓動を打っていた心臓が更にダメージを受けた。
——波の音。いいね。とっても心地良い。部屋のお布団よりも、ずっとここで寝ていたいくらい。
彼女が目を開いてこちらに顔を向けたので、慌てて星空に視線を戻した。
隣で彼女が小さく笑ったような気がしたのは、気のせいだと思うことにした。
とにかく落ち着こう。
自分に言い聞かせるように目を閉じた。
波音に集中するんだ。
寄せる波。
引く波。
頭の中を満たしていく波の音——。
やがて心臓が少しずつ元の位置に戻って、激しかった鼓動も徐々に収まっていった。
身体が軽くなる。
また波が身体の下にまで滲み込んできて持ち上げようとする。
彼女の隣に留まろうと抗ってみるけれど、出来ることは砂を握り締めることくらいで、何の抵抗にもならない。
虚しく浮き上がって揺れる身体。いつの間にか海水に囲まれて、このままではまた上下左右の区別もなくなって、やがて海に溶けてしまう。
そうだ。
掴むべきは砂なんかじゃない。
手だ。
彼女の手を——。
そう思って空を掴んだ。
目を開いた。
空そのものが瞬いているかのような星空だった。
視線を隣に落とすと、不思議そうな表情を浮かべている彼女と目が合った。
何も変わってはいない。時間もほとんど過ぎていないはずだった。
ただ心臓は平常運転に戻っていた。
何だか照れ臭くなって、関係のないことを話し始めた。小学校の頃、毎年行っていた曽祖父の家の話だ。
——おじいちゃん家は凄く古かった。天井にどう見ても人の形にしか見えない染みみたいのがあって、それがすっごい怖かった。でも何故か大人には言えなくて。あれは何なのかとか、人間の形じゃないかとか言ってしまえばいいのに、どういうわけか口に出せなくて。黙って一人でこっそり怖がっているしかなかったんだ。ああいうことって、どうして言えないんだろう。
——きっと、どんな答えが返って来てもろくなことはないって、分かってたんじゃないかな。ただの染みだ、形は偶然だって言われても予想通り、大人の言いそうなことでしかない。逆に、実は昔あそこには死体があってねとか言われちゃったら、もうその部屋にはいられない。
なるほどと頷いた。子どもというものは大人が言いそうなことくらい、案外と分かっているのかもしれない。逆に言えば、大人なんてその程度のことしか言わないのだろう。
——トイレも最悪だったぞ。一回土間に降りて靴を履いて行かなきゃいけなくって、夜とか一人で行けるようになるまで随分とかかった気がする。田舎の家って無条件に何かいそうな雰囲気を持っているし、途中の仏間には不気味な昔の人の写真が入った額縁がたくさん飾ってあったりするし。
——わたしのおばあちゃん家にもあった。額に入った昔の人の写真。あれって遺影なのかしら。せめてにっこり微笑んでくれてたりすればいいのに、みんな音楽室のベートーヴェンより怖そうで暗い感じのばかりだし。どうして飾ってあるのって訊いてみたこともある。そしたら一人一人どういう関係の人なのか説明してくれたんだけど、こっちはそんなことに興味はないから全然聞いていない。
彼女の笑い声にはふんわりとした優しさがあった。しっかり笑っていても、どこかしら儚さのようなものがあった。神経に直接作用する麻薬のような声だった。麻薬が悪ければ、魔法と言い換えてもいい。あるいは唯一、波音にも勝る音か——。
——昼間は海で遊んだり、山に虫取りに行ったり。虫取り網を持って近くの山を走り回ってたな。一本、小さな木なんだけど、すごくたくさん虫が集まっている木があって、木の種類なんか知らないから分からないんだけど、樹液が多かったのかな。カナブンとかたくさんいて、運がいいときはクワガタがいたりして。
——わたしは虫は駄目だあ。カブトムシも触れない。
——へえ。予想外。
——どういう意味よ。
——あ、いや。何でもない。あー、海でもよく遊んだな。その割には上手く泳げないんだけど。ずっと浮き輪つけて、ただ浮かんで遊んでただけのような気がする。それじゃ何回海に入っても泳げるようにはならないよな。
——前にも言ったけど、泳ぎならいくらでも教えてあげるわよ。でも分かってると思うけど、うちのサークルの練習ほど甘くはないからね。
——本当に逃げ出したくなりそうだから、遠慮しとくよ。
——もし逃げたりしたら、捜索隊を編成して地の果てまでも追いかけるから。
——何でだよ。俺の首に懸賞金まで賭けられそうだな。
——いいかもね。生死は問わずって。
——いよいよ目的が分からなくなってるぞ。ただの水泳教室じゃなかったのかよ。何の組織だよ。
——意気地なしに生きる価値なしよ。
それは百パーセント混じりっけなしの冗談だった。彼女に他意がなかったことも確かだろう。けれど、意気地なしに生きる価値なしという彼女の言葉は、この夜以降の自分を思い返せば、はっきりと意味を持って心に刺さる。
いろんな意味で大切な夜だった。なのに、あのときの自分はそんなことに思いが至らなかった。それ以上踏み込むことをせずに、当たり障りのない会話に終始した。
——おじいちゃん家では山や海で昼間さんざん遊んで、だから夜はすぐに寝ちゃってたけど、それでも眠りに落ちるまでの少しの時間、波の音が聞こえるんだ。寝息みたいな波の音が。
——寝息?
——そう。何の寝息なのか……海の寝息なのか、地球の寝息なのか、分かんないけど。
また茶化されると思って少しだけ身構えたものの、彼女は何も言わなかった。
恐る恐る様子を盗み見ると、また目を閉じていて、心なしかその目尻が下がっているような、逆に口角は上がっているような、つまりは笑っているように見えた。
二人の合間を縫って海が鳴っていた。いや、寝息を立てていたというべきか。
あの夜に告白をするべきだった——。
後になって、随分とそう後悔したものだ。
我ながら腰抜けぶりが情けない。
これまでの人生で一番背中を押してやりたい、針で突いてやりたいと思うのは、あの夜の自分だ。
もちろん、仮にあの夜に告白していたとしても結果は同じだったかもしれない。それでも、もしも、あの夜から今とは違う時間軸が分離して、二人がその上を歩いていたとしたら。そうしたら今頃、二人は——。
今更何を思おうが、何の意味もない。
思い直して、隣の席に置いてあった自分の鞄に目をやってから時計を見る。
三十分はとっくに過ぎているというのに、尋深は現れなかった。
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