21人が本棚に入れています
本棚に追加
1. 束の間の再会
法律上、歳を取るのは誕生日当日の午前零時ではなく、前日の午後十二時なのだそうだ。
当日の午前零時も前日の午後十二時も同じではないか。そう言いたくなる。けれど、この規定のおかげで二月二十九日生まれの人も四年に一回ではなく、毎年公平に年齢を重ねるシステムになっているらしい。
それを教えてくれたのは、思い出の中の女性だ。
——そんな法律さえなければ、わたしはまだ幼稚園児だったのに。
彼女がそう嘯いたのは大学一年の冬のことだった。
いやいや、それは違うだろうと突っ込んだ。
——一万歩譲って毎年ではないにしても、四年に一回まとめて四つ歳を取ることになるんじゃないのか?
——何でそうなるのよ?
——何でって、そりゃあ、その間に地球は太陽の周りを四周して、四年分の自転を繰り返しているんだ。お前の身体だって確実に経年劣化してるんだぞ。
時間は誰にも平等に流れていると言いたかっただけなのだが、彼女には通用しなかった。
——お前って言うな。それにまだまだ劣化する歳でもないから。成長だから。それに、すぐにそうやって星の話ではぐらかすのが、各務くんの悪いところだよ。
はぐらかしたつもりなんて全くなかったのものの、さらに突っ込んだところで不毛な議論の荒野が広がるだけだ。それでも黙ってはいられなかった。
——お前だって生まれてから二十年経った時に、まだ五歳だと言い張って幼稚園や保育所に行きたいとは思わないだろ。
——だから、お前って言うな。そんな具体的に詰めなくていいから。こんな冗談にマジになるなんて、馬鹿じゃないの。
——そっちが言い出したんじゃないか。保育士さんより肩幅の広い幼稚園児がいたら怖いぞ。
——あ、今のは完全にセクハラだからね。記録しといて、卒業の時にまとめて訴えるてやるから。
幸か不幸か、その訴えが起こされることはなかった。
卒業式の後、彼女とは少しだけ言葉を交わす機会があった。その最後に彼女は、またねと言って小さく微笑んだ。
それっきりだ。
そんなことを思い出したのは、さっき架かって来たクレーム電話のせいだ。電話で応対しながら先方の顧客データを見ていて、ふと二月二十九日という誕生日に目が止まったのだ。
その電話のせいで、完全にランチに出遅れた。
サラリーマンやOLで溢れる昼休みのオフィス街。この時間になると、目ぼしい店はどこも行列の長さを競っている。通行人に片っ端から声を掛けている露店の弁当屋にも気は進まない。
コンビニで済ませるか——。
コンビニエンスストアの強みはこういう場面で発揮される。食べたいものが明確な時に、コンビニに行けば手に入るというだけに留まらない。欲しいものがはっきりしなくても、行ってみれば何かしら妥協点が見つかるだろうと当てに出来てしまうところ。
人の存在価値にも似たような側面がある。課題や問題点が明確な場合に、的確な解決策やアドバイスを与えてくれる人間は重宝されるが、何が問題なのかすら見えていない状況や、問題の本質を見誤っているような時に的を射てくれる人材は、さらに希少価値が高い。
人波を縫いながらコンビニに向かって歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「各務くん」
女性から君付けで呼ばれたのはいつ以来だろう。その声と呼び方から、瞬時に思い浮かんだ人物が一人。それこそが、二月二十九日生まれの彼女だった。
まさかと思いつつ振り向いた見知らぬ顔だらけの雑踏の中に、スポットライトを浴びたかのように浮かび上がる顔。
中和泉尋深——。
顔の筋肉が強張るのが分かり、名前を呼び返そうにも声が出なかった。
「やっぱり、各務くんだ」
こちらの動揺など気に留める様子もない。人違いでなかったことを喜ぶ、子どものような屈託ない笑顔は、時間を一気に遡らせるタイムマシンのようだった。
繊細なビードロを思わせる茶色い瞳は、長い睫毛と二重瞼が相まって、殊更に印象深さを演出している。淡い色の唇の下に、見覚えのある小さなほくろ。ビルに反射した陽光が天使の輪を描く、艶やかな黒髪。その髪を後ろに束ね、学生時代にはほとんど見せたことのなかった額を露出している。会わなかった時間、ずっと紫外線を避けて生きてきたかのように白い肌。そして、学生時代よりも少しシャープになった印象の頬のライン。
そんなものを瞬時に観察してしまったのは、目を背けたかったから——かもしれない。平等に歳月を重ねてきたことは間違いない。それでもあの頃と変わらないものから——。それは、目に見える何かではなく、心の奥底に仕舞い込んでいた想いのようなものだ。
「ごめん。時間がなくなっちゃったの」
なくなっちゃった?
その言い回しに違和感を感じるも、口を挟む隙がない。
彼女は慌ただしく名刺とペンを取り出したかと思うと、裏に何かを書き込んで差し出した。見れば携帯電話の番号が記されている。
昔、登録したままになっている番号は、もう変わってしまったということだろうか。
「またね」
こちらの反応など気に留める様子もなく、それだけ言うと足早に雑踏の中へ溶け込んで行く。口を挟む余地もなかった。
一方的なところも変わらないな——。
瘡蓋がめくれてしまったかのように、ほろ苦い思いが滲み出してくる。けれど、思わず口元が緩んでしまったのは、あの頃の苦さも時間の経過と共に熟成されて甘みが出てきたということだろうか。
彼女の後ろ姿が完全に見えなくなると同時に時間が戻って来た。エキストラのような雑踏が、再び喧騒を取り戻す。
自分がひと言も発しなかったことに思い至り、長い歳月を経て、なお彼女との間に生まれた新しい後悔を、小さな溜息と共に吐き出した。
またね——?
いやいや。そんな社交辞令に何かを期待してしまうのは中二レベルだぞ。それでは彼女と初めて出会った頃よりも、レベルがダウンしてしまっている。卒業式の日にもそう言った彼女は、何年か前の同窓会にすら顔を出さなかったじゃないか。
苦笑しながら、自分も雑踏の一部に戻って歩き始める。
十五年振りの再会ということか——。赤ん坊だって高校生になる歳月だ。それだけの時間を別々に歩いて来た。それに比べれば二人の歩みが重なっていた時間など、ほんの一瞬のようにすら感じられる。
けれど、費やした時間の多寡が重さを決めるわけではあるまい。無為に過ごした長い時間よりも、濃密に生きた一瞬の方が尊いはずだ。そして、その尊さは結果の如何にも左右はされない——はずだった。
まぁそれは、自分がそう思いたいだけのことなのかもしれないが——。
最初のコメントを投稿しよう!