第17章 猫はどこで眠る

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第17章 猫はどこで眠る

その日から何とも言えない、宙ぶらりんの生殺しのような毎日がしばらくの間続いた。 呉羽さんは結婚式のあとまとめて休みを取ったとかで、数日間お屋敷で彼と一緒に過ごした。 結婚式も挙げたし、夫婦なんだから水入らずで過ごすのはまあ当たり前なんだけど。それでもずっと彼の部屋に入って出てこなかったり、時折二人で親しげに腕を組んでバラ園を散策してるのを見かけたりするとじわじわとそのたびに微妙にメンタルに来る。これからはこういう光景が普通になるんだから、いちいち気にしても仕方ない。と折りに触れて自分に言い聞かせてはいるが。 毎日ではないけど何度かはおそらく彼女の押しに負けてなのか、二人がダイニングルームでディナーを摂る場面に立ち会う羽目になった。ほとんど呉羽さんが一方的に話しかけて、時々顔を出す茅乃さんに相槌を打たれる程度で柘彦さんとの間に会話が成立してるとはいえない。だけど彼女は全く気にする風もなく平然と夫婦として振る舞っていた。 ある意味、心臓が強いというか。あるいは最初から彼の心がどこにあるのか気にかける必要がないのでそういう視点からすると無敵なのかもしれない。多分柘彦さんの愛情が間違いなく自分の上にある、って確信してるからの余裕ってわけではないだろう。と思いたい。 彼自身がこの状況をどう考えているのかは傍から見ていてもさっぱり読み取れなかった。 以前はわたしなりに、ほとんど表情に出なくても彼の醸し出す微妙な空気で大体の心の動きは読めてる気になっていた。今はどういうわけかそれができなくなっている。 上手く言えないけど、呉羽さんと向かい合ってナイフとフォークを黙々と機械的に動かしていても。彼女が甘えるように腕を絡めて二人で庭を歩いていても、彼は完全に自分を閉じているように思える。がん、と見えない鋼鉄のシャッターが降りている感じ。 それはもしかしたらわたしが彼の気持ちの波を感じ取る能力を失ったか。そもそも最初からそんな感覚は思い込みで、単に彼のことをわかったような気になってただけだったか、って可能性もあるが。 それとも柘彦さんと正対している人間は皆、自分だけは彼のことを理解できてるって勝手に思い込んで舞い上がるってパターンに嵌る傾向にあるのかも。だとしたら今の呉羽さんの余裕はついこの間までのわたしのポジションと入れ替わったことで起きている変化なのかもしれない。 わたしもあんな風に自分だけは彼にとって特別、って顔して浮き浮きして見えていたのかな。そう思い返すと今更ながらにやりきれなく、いたたまれない。 夜はとにかくノマドを部屋の外に出さないように気をつけた。わたしが意図して彼ら二人きりの時間を邪魔するために猫を放っている、と思われるのは心外だし。 ノマドはしばらくの間諦めきれずにドアの内側を引っかいてうろうろしたりしきりに鳴いて訴えてきたり、あれこれと画策していたが日が経つうちに次第に大人しくなっていった。長いこと彼の部屋で寝る習慣がついてはいたが。別にわたしのことが嫌いなわけではないので、まあここで寝るのもいいか。と結局は納得してくれたらしい。 一週間ほどしたところで彼女は仕事に復帰して、都内に借りてるマンションに戻ったと知らされてわたしはやっぱりほっとした。別にそれで彼がわたしのところに戻ってくるわけではないが。それでも一方的に相手の言いなりになって、普段しないようなことまで付き合わされている表情のない人形みたいな彼を見ているのは正直辛い。 再び、これまでと表面上は変わらない平穏な日々がやってきた。だけど二度と以前と同じ状態には戻れない。 呉羽さん不在の間もわたしは夜にノマドを部屋から出さないよう気をつけた。せっかく彼の部屋を訪れないよう習慣づけることができたんだから。このままでいられるに越したことない。 彼女が館を訪れるたびにいちいちあんな思いをするのはごめんだ。柘彦さんはもしかしたらノマドが来ないことで少しは寂しい思いをしてるかもしれないが。背に腹は代えられない。 再び春のシーズンのバラ園公開が始まり、ばたばたと日が過ぎていった。就職活動中の哉多はフルでバイトには入れず、地元の駅で募集を貼って集めた短期のバイトの子が代わりに何人か手伝いに入ってくれた。もうこっちも慣れたもので、指示を出したり仕事を教えるのも特に苦もなくこなせるようになっていた。 そうこうしてるうちに公開期間も終わり、本格的に梅雨入りした。わたしがこの館に来てから丸二年が経過したってことだ。 どよんと曇ってはいたが雨の降っていないはっきりしない天気。その日は久しぶりに哉多がお屋敷に遊びに来ていた。わたしが庭で堤さんと作業をしてる横で奴がちょっかいを出したり気まぐれに手伝ったりしていると、車のエンジン音が近づいてきて門の前に停まったのがわかった。 「…あれ?あの車」 哉多がのほほんと呟かなくてもわかる。あんな真っ赤なスポーツカー乗り回してるこのお屋敷の関係者なんて。他には一人もいないんだから。 堤さんも目を細めてそちらを見やり、肩をすぼめた。 「…ほう。ありゃ、ご当主の嫁さんだな。今日はこちらにお泊まりのご予定か」 「いえ、どうなんだろう。…聞いてはいなかったです、けど」 わたしは慌ててそっちへ駆け出そうとした。
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