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それなのに今朝は、卵とかパンって言葉に胃が反応してぐぅ、とお腹が鳴りそうなくらい。早く食べたいなぁって思うの本当に久々だ。
食欲が出た、ってことはやっぱり何かひとつ吹っ切れたのかな。
だとしたら原因は昨夜のあれしかない。そんなに乗り気ってわけでもなくて向こうの押しに何となくふらっと乗っただけだったけど。意外に覿面に効果があったと思うと自分が単純過ぎてちょっと情けない。
ものすごくよかったわけでもないけど、想像してたほど嫌な体験でもなかった。
わたしはじー、と微かな音を立ててじりじりと回っていくトースターのダイヤルを何ということもなくぼんやりと見守っていた。頭の中ではぐるぐると、初めての経験のあれこれが脳裏をよぎっては消えていく。
してる最中は何かと慌ただしくて目まぐるしく考えなきゃいけないことも多くて忙しなかったけど、終わってあとから思い返すと呆気ないほどどうってこともなかった気もする。
こんなことであれこれ悩んだり迷ったりするより、いっそ思いきって一度体験しちゃった方がすっきりするのかも。と思うくらいだ。
お腹の底にわだかまってた黒い渦みたいなものが気づくと霧散して晴れていた。どうにもならないことをあれこれと思い悩んでずっと落ち込んでいたけど。どうせ自分の力で事態を変えられないなら、こっちの気の持ちようや考え方を変えるしか打開策はない。
だったら頭だけを使って思考で何とかしようとするんじゃなくて。ダイレクトにフィジカルに訴えるって案外有効だったんだな。これまでそんなこと、思いつきもしなかったから。
袋小路に追い詰められたり、八方塞がりになった人がその手のことに逃げ込んで溺れたりするのを話ではよく見かけるけど。単に抜けられないどん詰まりでやけくそに肉欲に走って直視したくないことから目を背けてるだけなんだろうって思ってた。だけど、これはこれで実用的な効果がなくもないのかも。と、自分が思いがけなく実際にそんな立場になってみて初めて思い知った。
まあ、一度でこれだけさっぱり暗雲を払えるなら。これで充分役目を果たした気がするから、何回もこんなこと。繰り返すほどでもない、当面はしばらくあんな心身すり減らす運動しなくても。効果が持続してる間はしばらくごめん被りたいもんだ、ってのも正直な感想だが。
ほわん、と頭を空っぽにしてトースターの微かな低い音を耳でなぞっていたら。次の瞬間がば、と前触れもなく首回りに暖かいものがわっと巻きついてきて掛け値なしにいっとき心臓がぐ、と動きを停めかけた。
「おっはよ!眞珂。…どう、調子は?身体は大丈夫そう、今んとこ?」
「ちょっと。…哉多」
さすがにこれは困るんですけど。と閉口して何とか首にがしっと回ってる腕の輪から四苦八苦して逃れ、背後のコンロの方を気にしつつ小声で奴に抗議する。
「いきなりくっつかないで。澤野さんに何かと思われるじゃん。あんた昨日までここまであからさまにべったり触ってきたことないでしょうが、人前で」
「えぇ?…別にいいじゃん、わかっても。周りに隠す必要なんかないと思うけどなぁ…」
それでも一応こっちの言い分は呑んで離れてくれたのはありがたい。わたしがちょっとむくれてぱっぱっ、と服をはたいてるのを見て助け舟が必要と思ったのか、スクランブルエッグを仕上げてる澤野さんがフライパンをかき回しながらゆったりとした声で哉多を咎めた。
「哉多くん。女の子が嫌がってるときはしつこくしちゃ駄目よ。押しが強すぎるとかえって逃げられちゃうんだから」
「はぁー、い」
わざとか間延びした声で明るく返事する。仕上げたスクランブルエッグを手早く皿に盛り分けると、眞珂ちゃん、哉多くんの分のパンとコーヒーもついでにお願いできる?と頼んで澤野さんは隣のフォーマルダイニングルームへと移動した。多分呉羽さんが起きてくる前に軽く部屋を掃除して整えておくんだろう。彼女が去ると哉多が当たり前のように隙を見てわたしに抱きつき、軽く唇にキスした。
「…あのね。昨日の今日だからって油断しすぎだよ。誰か見てたらどうすんの?公の場所では今まで通り普通にして、頼むから」
「眞珂は神経質だなぁ。隠さなきゃいけない理由がわかんないよ。俺たちお互い若くて独身だし。同年代でずっとこうやって顔合わせてたんだから、むしろ当然の流れじゃん?遅すぎるくらいだったと思うけどな」
ぶつぶつ言いつつ自分の皿を出しに行く。チン、と軽い音を立てて止まったトースターをぱかんと開けてパンを取り出しながらわたしはそっちを振り向かず言い返した。
「あんた以外そんな風に考えてた人はいないよ。多分澤野さんはそれでいいの?大丈夫?って心配してくれると思うし。茅乃さんに至ってはもしかしたら激怒するかも。手近で間に合わせた、って解釈されたら哉多の方が大目玉食うと思うよ。わたしより」
「ひどいなぁ。どうしてそんな風に考えるんだろ。悪意の塊だよ。俺は至って真剣だし大真面目だけどね、いつでも常に」
いやそういうとこだよ。
あの女馴れした手管、実際に体験したら信用ゼロだって。どんだけ食い散らかして来たんだお前。としか思わないよ。
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