第18章 少し恋に似た何か

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なるべく早くまた来るよ、と人目を盗んで帰り際にわたしをぎゅっと抱きしめてもう一度最後に口づけて去っていった哉多からは時折思い出したように突発的にどうということもないLINEが送られて来る以外は、今のところ何のアクションもない。 つまりあんなことがあった割にはわたしたちの間は特に親密になったという実感もなく。普通に相変わらずだ。 運よく澤野さんや茅乃さんに怪しまれるようなところもそれ以上見られず済んだみたいで、わたしは今まで通り粛々と仕事に勤しんだ。 呉羽さんはその日の朝にしゅばっ、と早々に自分で車を運転して帰っていった。彼女が視界に入らないとわたしの心も僅かながらやや落ち着く。メンタル弱くて情けない限り、と忸怩たる思いながらも奥様の留守をありがたく受け止めて心静かに過ごすことにした。 柘彦さんの姿を目にすることはめっきり減った。 わたしは図書室に足を踏み入れなくなった。以前みたいに彼と鉢合わせて冷静でいられる気がしなかったし、何もなかったみたいに咄嗟に笑顔で対応できる自信がない。つくづくこういうとこ大人になりきれないというか。もう二十歳になったというのに。 高校生の頃と較べて自分はあんまり成長してる実感がないなぁと思う。この手のことについて人生経験を積めるような環境にないし。 館に来て以来のわたしは温室状態で周りのみんなに守られてる上に急な変化に慣れてない。変わってしまった(と勝手にこっちが思い込んでる)大好きな人の前で機嫌よく社交辞令丸出しの無意味な会話を交わすなんて。生まれつきのくそ不器用だし、想像するだけで多分無理。 その上わたしがそんな心境にあることは、おそらく茅乃さんや常世田さん、澤野さんにも概ね知られている。超個人的な内心のことなのに大人たちにすかすかに伝わって周知の事実になってるのは遺憾の極みだ。 茅乃さんにはことあるごとにまだ若いんだからこれからでしょ、いい男見つけていっぱい恋しなさい!と発破をかけられ、常世田さんには何かと優しく労わられ。 澤野さんはわたしの心理状態を心配してか、柘彦さんの部屋に食事を運ぶのを以来全く頼まなくなった。どんなに忙しくてもわたしにキッチンでの作業を言いつけ、自身の手でトレイを持って運んでいく。ここに来た最初の年に逆戻りだ。 わたしの方もあのドアをノックして彼と顔を合わせるのは気まずいので、こちらから是非持って行かせてくださいとお願いする気にはなれない。ノマドが夜にあの部屋を訪れることもなくなったので、実質わたしたちに接点は何もなくなってしまった。 彼の方も以前のようにたまにはふらり、と降りてきて従業員用のテーブルで朝食を食べていったり、夜中に庭を気ままに散策したりって行動が減ってるように思う。呉羽さんが滞在しているときは食事に散歩にと付き合わされる分、前より部屋から出てるのを見かけることが増えたが。その反動か、一人のときはより自室に閉じこもりきりになってる様子だ。 こういうとき、彼の結婚前みたいに気安い間柄だったら。ずっとお部屋の中じゃ気分が塞ぎますよとか、深夜でいいからカフェに降りてきて一緒にコーヒー飲みませんかとか。月が綺麗な夜だからバラ園を観に行きましょうよとかわたしから声をかけられたのになと寂しさを感じる。 だけど、そもそも思い返せばわたしと柘彦さんは喧嘩別れしたわけじゃない。だから今でもわたしが勇気を振るえば彼を部屋から引っ張り出せないことはないのかもしれない。哉多は言うに及ばず、澤野さんや常世田さんも自身は雇われの身分だって遠慮があるせいなのかご主人の個人的な領域には口を挟みたくない様子だ。 茅乃さんは尋ねるまでもなく何かと彼にずけずけと発破をかけてるのは間違いないと思うけど。そんなに引きこもっててどうするのよ、自分からもいろいろ動いて奥さんを支えてあげなきゃ駄目じゃないとか。うん、言いそう。いかにも。 でも彼女のそんな言い草はおそらく子どもの頃からのデフォルトと推測されるし。あまりに口煩く言われ続けて耳慣れすぎてて、今さら響かないだろうな。柘彦さんの心身の健康を考えれば、無理のない範囲で気分転換して身体を動かしましょうよと促すのに適任なのは本当はわたしなんだろうってのは察しがつく。聞き入れてもらえるかどうかはまた別だけど。 それがわかってるのに声をかけられないへタレなわたし。…だって。 久々に思い出してずん、と後頭部が押さえつけられたみたいに重くなる。何かと気遣われて声をかけられたり、反応を期待されるのも本心ではこれまでずっと重荷だったんだって。当人の口から直接、はっきり聞いちゃったんだもん…。 それがわかっててどう思われてもいいから、ってしつこく突撃できるほど精神が強くないんだって我ながら、嫌と言うほど思い知った。 そんな風にして柘彦さんの姿を見ない毎日がしばらく続いていた、そんな夏のある日のこと。 そろそろ夕食の支度の時間だな、とのほほんとキッチンに向かったわたしは二階のフロアをばたばたと慌ただしく行き交う茅乃さんと澤野さんに出くわした。
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