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「あれ、澤野さん?今夜の夕飯。何にするんでしたっけ?忙しいならわたし、できるとこから始めておきますよ?」
何気なく声をかけると澤野さんが足を止め、少し慌てた様子でわたしの方を顧みる。
「あ、眞珂ちゃん。ちょうどよかった。今夜の夕飯、ニ食分減らしておいて。ていうか、柘彦さんと茅乃ちゃんの分だけど。…お出かけになるのよ、これから」
「…えぇ?柘彦さんが、ですか?」
わたしは掛け値なしに驚天動地の思いで呆然となりその場に佇んだ。
「どうなさったんですか、あの方?どこか具合とか悪いの?もしかして病院に運ばれた、…とか」
ぞっとなった。おそらく長いことろくに運動もされてないし、身体も生まれつき弱くて太陽の光にも弱い。このところずっと自室に閉じこもってたのは身体の状態が半端なく悪化してたから、なんてことだったら。
わたしはどうしていいかわからない。嫌われても疎まれてもいいから、ノマドを抱えて毎晩彼の部屋に通って様子を見ていればよかった、と本気で猛然と悔やんだ。
わたしがよほど悲痛な顔をしていたのか、澤野さんは首を振りすぐさま言葉を継いで誤解を解いてくれた。
「違うの、そんなこと全然ない。ただの外出よ。さっき急遽奥様から連絡が入って。柘彦さんをお迎えに来るから用意して待っていてって。…藤堂家のご親族が皆さんお集まりになるらしいの。そこで改めて柘彦さんをご披露なさるって。今夜は向こうのご実家にお泊まりらしいわ」
「え。…大丈夫ですか?そんなこと。柘彦さんには」
それはそれでちょっと。…彼みたいな人には。さすがに、酷じゃないかな…。
「ご本人は。ご承知なんですか?自分の口で行くよ、って答えられたのかな。もしかして、奥さんと茅乃さんの間でまた勝手に。話が出来上がってて、いきなり有無を言わさず連れて行こうとしてるんじゃない?」
「誰が勝手にか。眞珂、あんたひとのことを無慈悲な人非人か何かと思い込んでないか」
背後から怒った風でもないきびきびした声が投げかけられて思わず首をすくめる。
「そこにいたんですか。茅乃さん」
「茅乃ちゃん。柘彦さんご本人はお出かけのこと、既にちゃんとご了承済みよね?」
澤野さんの用心深い口振りからも、内心ちょっと茅乃さんと呉羽さんの暴走はあり得るかも。と疑ってないこともないのが聞いて取れる気が。
茅乃さんは昼間見た格好とは違うシックな大人っぽいシンプルなスーツ姿を誇るように胸を張り、顎を上げてきっぱりと答えた。
「ちゃんとさっき説明してきました。本人もメールを受け取っててもう承知してる風だったよ。正式なお披露目らしいからきちんとしたスーツ着てね、って言ったら諦めの顔つきで頷いてたから。まあ、同意はしてると思うわ。抵抗しても無駄ってそういう納得の仕方かもしれないけど」
「そんな」
わたしは思わず言葉に詰まった。
「知らない人だらけのところにいきなり連れていって助け手もなく放り込まれて。あの方がそんな場所で社交なんか、無難にこなせるわけないじゃないですか。どうしてそんな無理難題迫るの?あの奥さんも…。彼のこと好きなら。大切なら、何が苦手で何を受け付けないか。もっと承知して守ってあげればいいと思うんだけど」
訴え出したらいろんな思いが喉から溢れて止まらなくなった。茅乃さんはそれほど心を動かされた様子もなく、まあまあと興奮するわたしを手で押し留めて腕につけた時計に目をやる。
「仕方ないでしょ。結納も式も披露宴もずっとこのお屋敷に閉じこもりきりで済ませて。それだけ向こうも妥協して気を遣ってくれてたんじゃない。だけど先方のご一族からは釈然としないと思われててもおかしくないでしょ。いい歳した三十越えた男が、知らない人の中で話せないとか言われてもさ…。呉羽さんだって、自分のためにそれくらいのことしてくれたらってそりゃ、思うよ。…あ、いらした。常世田さん、ありがとう。ゲート開けといてくれたんだ」
館の廊下は絨毯敷きだが、それでも彼女だけは心なしかヒールの音がしそうな雰囲気を醸し出してる。いつもながら溌剌と背を伸ばして歩いてきた呉羽さんの後ろにおっとりと常世田さんが案内についてるのが片目で確認できた。
「すみません、下鶴さん。急な話で。わたしの親と祖父母が。…きょうだいや叔父叔母も呼ぶから。お婿さんを一度連れてきてじっくりみんなで話したいって言って。聞かなくて」
茅乃さんはころっと愛想よく受け応えた。
「いえいえ。ご両親のおっしゃるのも尤もですよ。ご結婚前もお互い深く話す機会が全くなかったですもんね?まああの人もこのくらいのこと。結婚して所帯持ったなら、人並みの親戚付き合いもできないようじゃ。先が思いやられますからね?」
茅乃さんのおべんちゃらに彼女は悠然と応えた。
「そうなの、わたしも言ったのよ。あなたが人との交流に慣れないのは場数を踏まないせいもあるんじゃないのって。必要に迫られないから、アルビノで人前に出たくないからって言い訳してこもってたらいつまで経っても経験値上がらないわよって…。わたしのためにそれくらいしてくれてもいいんじゃないって言ったら。言い返せなくて黙っちゃったけど」
酷い。
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