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茅乃さんはしてやったり、と内心思ってるのが見え見えの表情ながら一応やや慎重に言質を取りにいった。
「そうしたら。プライベートなお客様をお泊めする客室をいくつか整備しておきましょうか。急にってことになっても間に合わないと大変ですしね。念のため、ってことで。…いまわたしや眞珂たちが住んでるような居室より、もっとホテル仕様の造りにしたいと思うんですよね。その方がどんなハイクラスのお客様にも対応できますし…。それと、まだ手をつけてない未改修のパーティールーム。ずっと使ってなかったけど結構豪華ですよ。あそこもなるべく早く。まず改装の手配だけでもしておいた方がいいかな…」
独り言めいた呟きで呉羽さんの反応を見てるのがわかる。ほんとに、お屋敷のどこもかしこも手をつけたくて仕方ないんだな。最近改修が進んでなかったのはおそらく資金の当てがつかなくなってやむなくストップせざるを得なかっただけなんだろうと思う。
呉羽さんはそんな茅乃さんの誘い水を特に不自然には受け取らなかったらしく、あっさりと納得して頷いた。
「ああ、そうね。それが済めばわたしも取引先のお客様や知り合いをこの館に気軽にお招きできるようになるし。接待やパーティーも主催できるようになるな…。いつまでもバラ園のシーズンだけの開放じゃ勿体ないですもんね?ここは薔薇以外にも。見どころがいっぱいあるんだし…」
そんなことになったら。柘彦さんの静かな暮らしがめちゃくちゃになっちゃう。
わたしは腹の底がひやりとなった。呉羽さんの生活パターンは都内と海外を行ったり来たりでここに滞在する期間は短いって聞いたから、それなら彼も何とか適応できるかもって無理やり納得していたのに。
なのに四六時中見知らぬ客が宿泊していたり、夜な夜なパーティーが開催されるようになっていったりしたら。柘彦さんは今までのように自室で自分のペースで過ごしていられるのかな。
いくら閉じこもって耳と目を塞いでも。人の気配や喧騒に邪魔されて、もう二度と心穏やかに暮らすことができなくなるんじゃ…。
茅乃さんの能天気なはしゃぎ声がわたしを苛立たせた。
「さすが、やり手の実業家さん。判断が早いわ。このお屋敷は文化財に指定されるって話も出てたくらい本当に貴重なものなんですよ。今まで宝の持ち腐れだったけど、有効に活用してくれるいいご主人に巡り会えてラッキーだわ。…おまけにちゃんと柘彦さんを立てて、大事にしてくれる素敵なパートナーもゲットできたし。忙しい中頑張って時間を作ってでも顔を見に駆けつけてくれるなんて。これまであなたにここまでしてくれた女性って全然いなかったでしょ。ありがたいわね、柘彦さん?」
またそんな。感謝の無理強いを。
聞いてるだけのわたしもさすがにちょっと腹が立った。この人はただ誰にも関わりを持たずに静かな毎日を送りたいだけなんだよ。自分に関心を持たない、洋館と庭園が目当ての女性とウィンウィンの結婚ができればよかっただけなのに。
わざわざ彼女のためにプライベートを共有して時間を割けなんて。最初と話が違ってきてるんじゃない?
それを彼みたいな人が喜んでるわけないだろ、と苛立つわたしはまた自然と自分だけが柘彦さんのことを理解できてるんだと思い込みかけてた。
だから予想できないタイミングで、彼がしっかりした声で自発的に話し出したときには打ちのめされたような衝撃を覚えざるを得なかった。
「…そうですね。僕には勿体ない、ありがたい気遣いを頂いてると思ってます。我儘なこちらのペースに何かと合わせてくださるし。限りある時間の中でできる限り寄り添ってもらえて…。呉羽さんには感謝しかないです」
その声。
彼の口から出た言葉を久しぶりに耳にできたのを嬉しく思うよりも先に、何とも言えない複雑な気持ちになった。
何故ならその響きの中に、無理やり言わされた感情の抜け落ちた棒読みの気配を感じるよりも。どこか実感のこもった、生の彼自身の声が含まれてるように感じたから。
懐かしい、差し向かいで話してたときと変わらないあの頃耳にしてた柘彦さんの喋り方だ。
この声で、以前わたしと二人親密な雰囲気で会話を交わしてたのと同じように奥さんと話をしてるんだ。
その事実がこれまでで一番、わたしの心をぽっきりと折ってくれた。それと同時にいつの間にか柘彦さんはこんな結婚生活を内心で負担に感じてつらい思いをしてるはず。と思い込むことでわたし自身を支えていた、って嫌な認識をしっかりと自分の顔の前に突きつけられる羽目に陥った。
茅乃さんがしみじみと感嘆するのを聞きながら、わたしは静かに小さく頭を下げて会話の邪魔にならないよう気配を殺してその場を立ち去った。
「…ほんとに、この人が誰かのことをここまで言うのを耳にすることになるなんてねぇ…。幼少の頃からずっと見てきたけど。ほとんど誰にも関心を寄せたこともないくらい引っ込み思案で閉じこもっていたんですよ。わたしの両親も柘彦さんを心配してて…。だけど、これで肩の荷が降ります。呉羽さんになら安心して任せられるわ、この人を」
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