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呉羽さんの謙遜を滲ませた晴れ晴れした声がわたしの背中を打つ。
「そんな。この結婚で助かってるのはわたしの方なのに…。仕事に追われる毎日の中で、柘彦さんと会える時は本当にほっとするんです。ああ、結婚してよかったなぁ、って実感があって」
それに対する柘彦さんの反応が出てきたら、と思うと怖い。今はあの穏やかな声を聞きたくなかった。
わたしは目を閉じて固く心の耳を閉じて、急ぎ足で隣のキッチンへと立ち去った。
そのあとはずっと目の前の仕事をこなすだけで精一杯。それ以上何も考えたくなくて、柘彦さんのことを頭から強引に押し出して何とか気持ちを保っていた。
夜になってようやく自分の部屋でひとりになって、ふと我に返るとノマドの姿が見当たらない。…しまった。
今日は自分で思っていた以上に上の空だったらしい。いつもなら夕食後に館の中をうろついているノマドをしっかり見つけて。以前みたいに寝る時間に柘彦さんの部屋にあの子が行かないように、早めにわたしの部屋の中に入れてあとは寝付くまで外に出さないように気をつけてるのに。
今ごろ彼の部屋に行っちゃってないよね、とこわごわと足音を極限までひそめて四階まで上がり、ごく遠目にこっそりドアの前を見て確かめる。少なくともそこに締め出された可哀想な白黒猫のしょげた姿は見当たらなかった。
半分ほっとするような、もしかしたら哀れに思った柘彦さんか気を回した呉羽さんの手で既に室内に招き入れられているのでは。と気が気じゃないような。
二人の優しさでノマドが受け入れられてるならそれはそれでありがたい話なのかもしれないが。問題はわたしにはそれを確かめる術がないってこと。柘彦さんがスマホを持ってるかどうかも知らないし、パソコンのメールアドレスももちろんわからない。いわんや呉羽さんの連絡先は言わずもがな、だ。
だからといってあの部屋のドアを思いきってノックする、なんてことは絶対にできない。あの板一枚隔てた内側で、二人が親密な幸せな時間を過ごしてるかもしれない。というか多分そう。…って事実を、今日この目で確認しちゃったから…。
ずん、と両肩が重くなり思わずため息が漏れた。とりあえず、今は無理。あの部屋を訪ねるのは後回しにしてまずは館の中の他の心当たりを探そう。直にドアを叩く以外の方法が思い浮かぶかもしれないし。他の場所にノマドがいてくれればもちろんそれに越したことはない。
あの子が好んで行く場所は多分キッチンかサンルームだよね。と見当をつけて階下に降りる。思えばキッチンとダイニングには、今日の夕食のときあの子は顔を出さなかった。
だから今の時点でそこにいる確率はそんなに高くないと思うけど。どうせ降りていく途中の二階だから、念のためちらっと覗いて順番に可能性を潰していこう。
そういえば、もうだいぶ以前に同じようにノマドが寝る時間に行方不明になって。こうやって夜遅くに館の中を走り回って探したことがあったなぁ、と遠い記憶が脳裏に甦る。
あのときってもしかして確か同じようにキッチンとダイニングを覗いて二階を走り抜けようとして。哉多の部屋の前で声をかけられて中に呼び入れられたんじゃなかったっけ、と余計なことをちょうど思い出したまさにその瞬間。
何かの気配を感じたのか奴の部屋のドアが開いてひょいとそこから顔を出す。思い出すのがほんの少し遅かった。こうなる危険性が頭の端にでもあれば。
もっと足音を忍ばせる、とか最低限の警戒はできただろうに。
「どした、こんな時間に。またホル子行方不明?」
だけど緩い部屋着姿でのほほんと訪ねてきた哉多の表情は裏心を感じさせず、部屋の中へと招き入れようと画策する様子もない。さすがに一度失敗したやり方を全く同じ手筈で再挑戦しようって思うほど無策な奴ではないか。と考えて素直に頷いた。
「うん。キッチンにもいなかった。あの子、長いこと毎晩柘彦さんの部屋で寝る習慣になってたから。そっちに行っちゃってるんじゃないといいんだけど…。ちょっと心配で」
「今晩はさすがにそっちに行ってませんか。とか声かける気になんないもんな。まあ気持ちわかるよ。…一緒に探そう。あとどこ?心当たり」
わたしの気後れを即飲み込んでさっさと部屋を出て同行してくれた。へらへら茶化したりしないところを見ると、ちゃんと本気で心配してくれてるみたいだ。わたしはほっとして奴と並んで足早に廊下を急いだ。
「一番ありそうなのはやっぱりサンルームかな。仔猫の頃はあそこで寝起きしてたし…。ケージは片付けちゃったけど、やっぱり今でも自分の場所って感覚があるみたいで。昼間はあそこでよく過ごしてる」
階段を降りながら説明すると、哉多は納得した顔つきで頷いた。
「確かに、俺がうし子を見かけるのはお前と一緒じゃないときはほぼほぼあの部屋でだな。まあカフェやってないときはみんな用がないから寄り付かないし。猫からすると誰にも邪魔されなくて落ち着く空間なのかもしれないな。ていうか、あそこにいて欲しいよな。俺だってちょっと嫌かも、あの女が来てるときのあいつの部屋に声かけるの」
「まあ。…そうだよね」
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