第17章 猫はどこで眠る

8/10
前へ
/22ページ
次へ
ぽつり、と小さな声で名前を呼ばれてようやく違和感の正体を把握する。 振り向いて、あんた何女の子の部屋に普通に入ってきてんの。いや一緒にノマドを探してくれて本当にありがとう、それについてはどうもお疲れさまでした。だけど。 ここまですんなり入ってくるとか、それはまた別だろ。今度モールにでも行ったとき何かお礼に奢ってあげるから。今日はもう部屋に帰って寝なよ、また明日ね。と強めに言い渡すつもりで口を開きかけた。 …なのに。 「眞珂。…あのさ」 振り向くと何か言いたげに部屋着の下衣の両ポケットに拳を突っ込んで、ためらいの色を浮かべて突っ立ってる。いつものへらへらした蛙の面に水、といった態度は影を潜めてる。 そのズボン、どう見てもデザイン寝巻きなのに。ちゃんとそこにしっかりポケットついてるんだな、必要あるのかな。と全然関係ないことを馬鹿みたいに考えてた。 「…その猫、もう今日は起きないんだろ。だったらさ。…邪魔にならないとこにそっと置いて。俺たち、そのベッドで。今夜は一緒に寝ない?」 一瞬その提案についてしばし検討してしまった。 意味が理解できなかったとかじゃない。以前提示して蹴られた申し出を再び機会を見つけてねじ込んできたわけだ。だけどあのときみたいに冗談じゃないよ。顔洗って出直してこい、と思いきりお尻を蹴っ飛ばして撃退したいとは。 今回はすぐには思えなかった。 何で、って訊く気にもならない。多分したいからしたいんだ。そこに理由なんてないだろう。以前からチャンスがあればいく、って言われてるし。今がそのチャンスだって考えただけだと思う。 ただ、前のときみたいにへらへらと笑って大したことじゃないよ、深く考えないでとりあえずやってみればいいじゃんみたいな扱いはされなかった。そこはそれなりに学習したのか、ちゃんと真剣な面持ちで少し緊張したようにこっちを見ている。 それで絆されたわけじゃない。だけど、向こうがふざけた態度だとこっちも取り合う気が失せるけど。真面目な表情だとそれにつられてかまともな返事をしなきゃならない気分になるんだってことがわかった。 「そのベッドは。…ちょっと。この子、その上で。いつも寝る、から」 腕の中で目を細めて穏やかな寝息を立てているノマドの方に意識がいった。温かく、ぐんにゃりと柔らかい。きっとわたしに抱かれて心の底から安心してるんだ。身体全部の重みを預けて、無防備な姿。実に幸せそうな、安らいだ様子。 わたしも誰かに体重を預けてその人の体温に包まれたら。何も考えず、少しは満たされた気分になれるのかな。 ふと脳裏にさっき見たこの上の階の、閉ざされた重い扉が浮かんで消えた。具体的な状況は絶対に、かけらも想像したくはない。 だけどあの扉の中で。間違いなくお互いの体温で、心を慰められてる人たちがいるんだ…。 だったら。わたしだってそれを願って何が悪い? 次の瞬間自分の口から勝手に声が出てるのを耳にして、何とも不思議な気持ちでそれを聞いていた。 「…ここでは無理。この子、起きちゃうと困るし。…そっちの部屋でなら」 「わかった」 若干食い気味だった以外は奴は浮かれた反応は見せなかった。ただやけに生真面目な顔つきで神妙に頷く。 そういう勘はさすがにいいやつだな、と後で改めて思い返しても感心する他ない。ある意味事務的に、淡々と目の前の課題を一つずつ片付けるみたいに対処し始めた。 これから何が起きようとしてるのか。多分わたしにそれ以上深く考えさせないために。 「…そしたら。そいつ、そっと起こさないようにその上に置ける?割に深く寝てるみたいだな。腕から下ろしても大丈夫かな?」 「うーん…、どうだろ。すごくよく寝てることは確かだけど…」 時間帯を考えるといつもはとっくに寝入ってる頃だから。意外とそのまま目を覚まさないかもしれない。だけど腕の温かみで安心してるんだと思うと。いつものベッドに下ろされても寒いと感じて不満に思うかも。 こんなときいつもどうだったかな。脳が今の状況の非現実さで麻痺してどうも普段通りに機能しない。 とりあえず、いつもノマドが好んで寝る場所。わたしの枕の横に慎重に下ろしてみる。起きたらそれはそれ、残念無理でしたまたの機会にね。それでも全然いいと頭では考えてるのに。 やっぱりそおっと丁寧になってしまってるのがおかしいなと自分でも思う。わたしもしたいとか、奴に今どうしても抱かれたいとか。 そんな風に思ってなくても安らかに寝息を立ててるこの子を起こしたくない、って気持ちになるのとはまた別の問題だと自分に言い聞かせる。 哉多がそこを突っ込んできたら嫌だなと頭の端をよぎらないでもなかったが、奴はわたしの隣に立ってただ一緒に真剣な様子で猫を下ろす手許を見守っているだけだった。やっぱりこいつ、見た目に反してちゃんと場の空気の流れを読んでるんだってことがわかる。 ノマドはベッドの上で幸せそうに目を細めてぎゅっと丸まったあと、再び深い寝息を立て始めた。しばらく黙って見守ったけどそれで起きる兆しはない。 「…大丈夫みたいだね」
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加