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わたしの背後から重なるように、だけどべったりくっつきはしないよう少し間隔をとって哉多が屈みこんで小さく呟いた。仄かな体温と低い囁き声に初めてどきん、となる。
これから起きることの実感が湧きそうで慌てて想像力を遠くに放り投げた。考えたら駄目。リアルに思い浮かべたら、何もできなくなる。ここからやっぱり、もう動きたくない…。
わたしの中の怯みを読み取ったみたいに奴がそっと後ろから、わたしの右手を重ねるように取った。
大きな手。…全然そんな風に思ったこと、これまで金輪際一度もなかったけど。
わたしよりずっと大きくて、ごつくて温かい。男の人の手だ。
脳裏にふと、向かい合ったテーブルの上で組み合わされた繊細な白い手の映像が一瞬ありありと浮かんですぐに消えた。
哉多の手に力がこもってわたしをそっと促した。
「…この分ならこいつ、しばらく起きそうもないね。…じゃあ。行こう」
手を引かれて促されるままに階下に降りた。
途中、わたしの気が変わらないようにかしっかりと手は握ったまま。これまでほとんど触れ合ったこともないのに何だか変な気分だ。
別に逃げたりしないよと言って離そうかどうか迷ったけど。自分でもそこはよくわからなくて結局やめた。
もしかして手を引かれなければ。踵を返してノマドが眠るいつもの自分の部屋へと逃げ帰りたくなったかもしれない。それは絶対ないとは言えない気がして。
以前に誘い込まれたあの日以来、久しぶりにこの扉をくぐった。
背後でドアが閉まる音がして、その瞬間猛烈に後悔する。きちんとした覚悟もできてないのに。何となく成り行きでここまで来ちゃった。
「…眞珂」
また名前を呼ばれた。と思ったら振り向く間もなく背後から腕が回ってきてぎゅ、と抱きすくめられた。…あったかい。けど。
こんなに近くに他人の存在を感じた経験がない。男の人に限らず、同性でも家族でも。だから呼吸で上下する胸や脈打つ心臓の音が直に伝わってくる感覚に慣れてないせいかな。なんか、すごくどきどきする。
それから片手を頭の横に添えられて、ぐいと振り向かされるなり後ろから顔を寄せてくるのがわかった。
あ、キスされる。と瞬間思ったけどもう避けようがない。されるがままにそのまま受けるしかなかった。口の上に奴の唇の感触を感じながら、こういうときはキスしていい?って一応訊いてからじゃないのか。前に車の中でしようとした時はちゃんと了承を取ろうとしてたじゃん、と微妙に納得いかない気持ち。
だけど口を塞がれてるし文句を言うこともできない。今更奴をぶん殴ってももうなかったことにはできないし。わたしは諦めて、奴の求めに応じて少しだけ唇を開けた。
途端に隙あり、とばかりに舌を思いきり差し入れられた。歯や舌を探られながらここまで深くするのが普通なのか、キスって。と戸惑いが拭えない。
もっと優しく、口を開けるにしても微かに触れ合うようにするもんじゃないの。こっちは初めてなんだから。もっと加減してくれるかと思ってた。
息も絶えだえで少し気が遠くなりかける。やっと終わって唇が解放され、水から上がったみたいにぷは、と息をつく。
そのときようやく身体に回された手がしっかりと胸を覆ってるのに気がついた。だけどもうどうしようもない。すっかり哉多のペースだ。
こいつ、やっぱりこういうの慣れてるんだろうな。抵抗したりためらったりする隙を与えずにスムーズに流れに入ってるのがわかる。歳の割にガキっぽい見た目なのに。人は外見だけじゃわからない。
奴は感極まったみたいにはぁ、と大きく息をついて抱きすくめる腕にきつく力を込め、わたしに背後から頬を寄せた。
「眞珂。…眞珂」
何度名前呼ぶんだ、とわたしに突っ込ませないようにかすかさず言葉を継ぐ。
「…いい?しても」
「いい。…けど」
ここまで来て断る選択肢あるんなら。それはそれだけど、どうなんだろう。
抱きしめられて胸触られて、キスもしちゃったし。なんか、砦というかガードが既に外れちゃった気がする。
予防注射でいうと体温測って予診票記入して、待合室まで来て呼ばれるのを待ってる感じだ。この時点で気が変わりました、と席を立って逃げ帰ってもどうせいつかはこの注射を受けなきゃならない。いや処女は別に捨てなくても死にはしないけど。でも、どういう成り行きになるかはわからないが。生涯死ぬまで一度もなし、で済むかどうかは現時点で何とも言えない。
二年前、もう今では茫漠とした遠い記憶の彼方に押しやられていたあの借金取りの男の声が漠然と甦る。わたしの全身を下卑た目つきで上から下まで舐めるように見回した。…あんなのに最悪、無理やり経験させられる羽目になるくらいだったら。
少なくともわたしのことを知っていて、ちょっとは気配りをしてくれる可能性のある相手の方が全然いい。哉多ならわたしを酷く傷つけるようなことはしない。だって、友達だから。
奴が切なげに軽く身悶えしてわたしに身体をすり寄せるのがわかった。こいつも我慢してるんだ。多分、わたしが受け入れる決心がつくのを待ってくれてる。自分は今にも限界に達しそうなのに。
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