その言葉が嬉しくて…

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ソメイヨシノが散った頃、追いかける様に咲く八重桜。毎年4月の初旬の真っ青な空をバックに少し深めのピンクの花を縁側に座って眺めるのが、今年70歳になる母の楽しみだった。 「お母さん、やっぱり今年は八重桜元気ないね」 洗濯物を干しながら母に話しかける。 無言で春の柔らかな日差しさえ眩しいのか、母は目を細めて桜を見つめている。 その横顔を見て、寂しさで私の問いかけにも返事が出来ないのかと少し寂しくなった。 私が子供の頃は、その縁側から見る風景は遠くにパン工場があり、そこまで続く田畑には昔からの家が疎らにうっすらと影の様に見える程度だった。 年月と共に建物が増えながら、我が家の目の前に色を持って近づいて来ていた。そしてとうとう今年、八重桜が咲く少し前に庭の塀際に、洒落た造りのアパートが建ってしまった。 毎年見ていた凛として咲き誇る八重桜のピンクを真っ青な空が鮮やかに引き立てていた。今年はレンガ色の壁が影を落とし、その鮮やかさは消えてしまった。 母はその事が寂しいのか私の問いかけに、たまに返事をしながら外をみていた。 ピー、ピー、ピー………。 アパートの前に大きくて可愛い動物の絵が描かれたトラックが止まった。私はトラックの音にかき消されない様に大きな声で母に言った。 「お母さん、もうアパートの人引っ越して来たね。賑やかになるね」 「そうだねぇ、どんな人達が住むのかねぇ」 母は少し楽しみなのか、私の問いかけに微笑みながら答えた。
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